33 夏 ヒマワリ 15
――事故には遭ったし入院もした。ただ、今も元気に会社勤めしてる。ずっとよそで暮らしてて、じいさんとは長いこと会ってないけどな。あ、奥さんは、ほんとに死んでる。
ヒワコは脚を伸ばしたまま踵を上げ下げし、首を横に傾けた。
――じいさんにとってはさ、ヒロシは今でも高校生なんだよ。
「た……ヒロシ! そろそろ交代してもらっていい?」
茜が声は弾ませたまま、拓の様子を上目遣いで窺うようにして尋ねた。
「おう。いま行く」
拓はヒワコに目配せして、立ち上がった。
「もうお前、卵でとじるだけだよ」
台所に行くと、銀次が苦笑いしていた。
既に豚肉や豆腐、鰹節とともにゴーヤーは炒めてあり、緑がいっそう濃くなって、油でつやつやしていた。醤油やコショウの香りも香ばしい。
拓は何を手伝えばいいか銀次に訊き、シンクの上の棚から皿や箸を出して洗った。
すぐ横で銀次が、冷蔵庫から出した卵を、豚肉やゴーヤーが入っているフライパンに割り入れて手早くかき混ぜた。
ゴーヤーの鮮やかな緑に卵の黄身が絡む。それはしだいに白身の白さが入った炒り卵色になって、ゴーヤーや豚肉に均等にまぶされていく。
塩気と旨みとが充分に詰まった香りが立ちのぼり、拓の鼻孔をくすぐった。
「この皿を選んだか。母さんと三人で行った沖縄旅行、楽しかったもんな。魚の模様は子孫繁栄を意味すんだっけか? じゃ、頼むぞ、盛りつけ」
銀次は、これ以上垂れようがないというくらい目尻を下げ、目を細めた。額の皺が別の生き物みたいに生き生きと上下した。
「うん」
心臓が急に速く打ち出し、みぞおちの辺りに熱いものが渦巻いた。
拓は銀次の顔を見ることができなかった。
全体的に土っぽい感じがする、底に二匹の魚が泳ぐ模様が青と黄で描かれた大きな深めの皿に、拓は湯気が立つゴーヤーチャンプルーをよそった。そして、ちゃぶ台へと運んだ。
銀次、拓、茜、そしてヒワコがちゃぶ台を囲んだ。
「いただきます!」
「あ、取り箸ないですけど」
茜が言うと銀次が、んなもんいらねえよ、直箸でいいじゃねえか直箸で、と鼻の頭に皺を寄せた。すぐに茜も納得して、堂々と自分の箸を大皿に伸ばした。
拓も小皿に自分の分のゴーヤーチャンプルーを取り、口に入れた。
「熱っ!」
拓が口に手をやり空気を吸い込みながらハフハフすると、銀次は口を大きく開けて笑い転げた。
「料理は逃げねえ。ゆっくり食いな」
拓はうん、と言うつもりでふぉぅ、と頷いた。
豚肉の少ししょっぱくて滋味豊かな味わいと弾力性のある豆腐の淡い味に、緑のゴーヤーの苦くて青くさい味がぶつかる。
ふわっとして微かに甘みがある卵や醤油、鰹節の味がそれらをつなぎ、すべての素材が口の中で混ざり合い、溶け合う。
噛めば噛むほど、味に奥行きや甘みが出る。俗に「ほっぺたが落ちそう」という、頬の内側が引っ張られるような感覚が湧き起こる。
拓は、ずっと噛んでいたいという気持ちと、すぐに飲み込んで次を味わいたいという気持ちの間を行ったり来たりした。
飲み込むと、まるで胃袋が喜びを表しているみたいに胃の辺りが脈打った。
「どうだ?」
少し心配そうな、けれどもいたずら好きの少年のように好奇心に満ちた目で、銀次は拓の顔を覗き込んだ。
「美味い」
拓は銀次の目を見て呟いた。そして何度もゴーヤーチャンプルーに箸を伸ばし、黙々と食べ続けた。
「おいしいです。塩を振ったおかげで苦味もちょうどいい感じ」
茜は、暗い部屋に明かりが点いたみたいに晴れ晴れした笑顔を銀次に向けた。
「そりゃよかった。二人とも、思いっきり食ってくれよ。といってもそんなにたくさんねえし 俺も食うけどな。うん、やっぱり、自分で作ったゴーヤーってのは格別だな」
銀次は顔をほころばせ、人生すべてを畳み込んでいるような深い皺を目尻に刻んだ。そして 自分も、ばくばくゴーヤーチャンプルーを口に運んだ。
「お前、ガキの頃からゴーヤーチャンプルーが好きだったもんなあ。ガキのくせによくこんな苦いもん食うなあ、と思ったもんだよ」
ひと息ついて、銀次がまた目を細めた。
「苦いのがいいんだ」
拓はきっぱりと言った。そして、細かい凹凸のついた花びらみたいに皿の中に散っているゴーヤーの薄切りを、これでもかというくらい大量に口の中に入れた。
銀次のすぐ横でヒワコも、拓以外には見えない箸でゴーヤーチャンプルーを取っていた。
拓よりゆっくりと、銀次の笑顔を脳裏に焼きつけるようにしながらそれを食べる。
潤んだ目は、決して涙を零すまいとしているかのようだった。
ここまでお読みくださり、どうもありがとうございました。
連作短篇「夏 ヒマワリ」はこれにて終了です。
ご来訪に心から感謝申し上げます。
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