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31 夏  ヒマワリ 13

拓は思いがけない言葉を銀次にかけられ……。

 ヒロシじゃねえしどこが顔がそのまんまだよ! という言葉を飲み込み、拓は銀次を見た。

 真顔だ。


 拓は次に茜を見た。彼女は少し青ざめた顔で目をみはっていた。


 銀次の陰から、目を伏せて、ヒワコが出てきた。睫毛まつげと唇が細かく震えている。

 ヒワコは黒く大きな目を子猫のように潤ませて、拓を見上げた。


 ――頼む。ヒロシってことにしてくれ。


 ――頼むって、……お前なあ。


 ――お願いだ!

 ヒワコは深く頭を下げ、同時に頭の上で、両の手のひらを隙間すきまなく合わせた。指先まで、張りつめたようにピンとしている。

 そのまま動かないヒワコを、拓は口を引き結んで見つめた。

 ――顔上げろ。ちゃんとあとで説明してくれよ?

 拓は溜息をつき、「話を合わせてくれ」と目で茜に合図を送った。そのままの意味が伝わったかはわからないが、茜はあるかなきかの感じで頷いた。



「ごめん。心配かけたな」

 拓の口からは、ぎこちない言葉しか出てこなかった。

 けれども、銀次はこれ以上ないくらいにこにこして、鼻の下をこすった。

「水くせえこと言うなよ。さ、上がった上がった。ちょうど、うちでゴーヤーがれたんで料理しようと思ってたところだ。そっちの娘さんももちろん一緒にな」

 

 拓と茜は黙って銀次の家に上がった。 台所のシンクはこの前より片付いていた。けれども、そのそばの床に置かれたごみ箱にはごみがあふれていた。

 ちゃぶ台の上がごちゃごちゃしているのは前と変わりなかった。が、その周りも、新聞やコンビニの袋などが乱雑に積み重ねられて床が見えなくなっている。ちゃぶ台とテレビとの間に、脱ぎ捨てられた衣類がこんもりした山になっていて、銀次はそれを隠そうともしない。


「突っ立ってないでまあ、座れや」

 銀次は上機嫌じょうきげんだった。黄色いTシャツには食いだれと思われるしみがたくさんあり、彼の全身から、汗とあかが混じった臭いがした。

 拓と茜は、新聞の山を掻き分け、なんとかちゃぶ台の周りに座った。


「しかしお前も、なんだなぁ、ヒロシ。やっと家に帰ってきたと思ったら、こんな別嬪べっぴんさんの彼女を連れてきやがって」

 銀次は目尻を下げたままちゃぶ台の上を手で探り、中くらいのゴーヤーの実を取り出した。店で売られているものよりはやや小ぶりな紡錘形ぼうすいけいだ。けれども濃い緑色で、大小さまざまなイボイボも一つも潰れたりせず、内側から生命力をみなぎらせている感じだ。


 ヒワコはさっきから黙ったまま、ちゃぶ台の近くの壁に寄りかかって立っている。

 子猫が興味あるものから目を離さないみたいにじっと、銀次やゴーヤーの実を見つめている。


「立派だろう? 俺が作ったんだ」

 銀次はゴーヤーを拓の目の前に突き出した。

「……そうだな」


 拓は小さい声であいづちを打った。


「ベランダの外を見てみろよ。あれ、なんていうか知ってるか? 緑のカーテンっていって、天然のなかなかいい日よけなんだぜ? ハイカラだろ?」


「……うん」


 なんだ知ってるのか、と少しがっかりした顔になった銀次だったが、またすぐに目を細めた。

「ゴーヤーチャンプルーでいいか?」

「ああ」

「そっちの彼女も、ゴーヤーチャンプルーでいいか? なんか食いたいもんあったら遠慮なく言ってくれ」


「ゴーヤーチャンプルーが食べたいです」

 茜は屈託くったくのなさげな笑顔で、まっすぐ銀次を見つめた。膝の上に置かれた茜の右手が、ぎゅっと彼女自身の左手を掴んだ。

「よしわかった。できるまで、ゆっくりしててくれ。飲みもんは冷蔵庫にあるから、勝手に飲んでくれ」

 銀次は腕まくりをし、口笛を吹きながら台所に向かった。


 窓のレースのカーテン越しに、人が手を広げたような感じの緑の葉がネットいっぱいに茂っているのが見えた。もう立派りっぱな、緑のカーテンだ。

 葉は日を透かして教会のステンドグラスみたいに光り、葉と葉が重なり合ったところは濃い緑の影になっている。つるはあちこちから出て、いろいろな方向に伸びている。葉の間からは、 黄色い花や、まだ小さい紡錘形の実が覗いていた。


「手伝いましょうか」

 茜が立ち上がった。

「いいっていいって。お客さんにそんなんさせちゃわりいし、台所も見てのとおり狭いしな」

 最初、銀次は手を横に振った。けれども茜が「手伝った方が早く料理ができ上がりますよ」と言うと、「じゃあ、ちっと手伝ってもらうかな」とにこにこして顎を撫でまわした。


「俺も手伝う」

 拓も立ちかけたが、銀次が

「狭いし三人もいちゃ、むさ苦しくてかなわねえ」

 と顔を顰めた。

「あ、じゃあ、途中で交代しますよー」

 茜が明るい声で手をパン、と打った。


「お、そうか。んじゃまず、俺がゴーヤーを切ってる間に、豆腐を切っていためてくんねえかな」

「わかりました。油とフライパンはどこですかね?」

 台所から、楽しげな会話が聞こえてくる。

 拓がちゃぶ台の上の新聞を一か所に集めて重ねていると、ヒワコがやってきて、近くであぐらをかいた。拓の目を見、溜息とともに視線を下に落としてから、もう一度、拓を見た。腹の前で両手の指を固く組んでいる。



 ――ごめんな。びっくりしたろ?

 おそるおそる、という感じで言うとヒワコは、マネキンみたいに静止した。


 ――ああ。

 拓はどういう顔をしたらいいのかわからなかった。


 ――認知症にんちしょうなんだ。じいさん本人は全然、自覚がない。


 ――料理に関する話は、まったく普通だしな。俺をヒロシと間違えたり、俺や茜のことをすっかり忘れたりしてなけりゃ、わからなかったかもしれない。にしてもなぜ黙ってた? 早めに病院に行ってもらった方がいいだろ? 進行を遅らせるためにも。


 ――だよな。

 ヒワコはちゃぶ台に頬杖をつき、窓の外を見た。小麦色の肌が、日射しを浴びて金色に光る。

茜は豆腐を切り終わったくらいですかね。


ここまでお読みくださり、どうもありがとうございました。



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