29 夏 ヒマワリ 11
ヒワコや茜とともに台風と闘った拓は、ゴーヤーをネットごと銀次の部屋に運び込む。
――なんか、苦労したみたいだな。
ゴーヤーをネットごと運びながら、拓はウリヤに話しかけた。
――は?
――ヒワコのこと。
――いえ、全然。気持ちはわかるし……。
――気持ちはわかる、だと? 気に食わねえって追い出されたのに?
今度はウリヤが拓の顔を見つめた。小さな目が素早く何度も瞬き、口が僅かに開いた。けれども、彼女はメガネをくいっと押し上げたあと、またすぐに目尻を下げた。
――あ……でもほら、ヒワコさん優しいとこあるし。図書館の場所を教えてくれたり。
そういえばウリヤは、現れたとき文庫本を持っていた。本が好きなんだな、と拓は思った。
――でも、読めんのか? 本。植物の本体にしか物理的にさわれねえんだろ?
――ええ。でも、ほかのものでも、ものの本質にはさわれるのよ。なんていうのかな、人間で言えば、そうねえ……お彼岸のお供え物のおはぎは、別に見た目は齧った跡がついたり量が減ったりしないわよね。でもご先祖様はおはぎの本質は食べてる、っていうのと似てるかなあ。アハハッ、ごめんなさい説明へたで。
――いや、そ、そういうもんなのか。ちなみに、どんなの読んでるんだ。
――今は夏目漱石の『吾輩は猫である』。シイタケで歯が欠けたりして意外と笑えるし、人間以外のもの……あ、猫なんだけどね……が語り手だから、ハハッ、なんか妙に親近感が湧いてね。
――へえ。俺は漱石は、『こころ』の教科書に載ってるとこしか読んだことないな。
会話しているうちに、銀次の家まで戻ってきた。
ブザーを押すと、ドアが静かに開いた。
「お疲れさん。大変だったなあ」
銀次が眉根に皺を寄せ、拓を上から下まで眺めた。
玄関の三和土には、すでに新聞紙が敷かれている。
銀次はすぐにちゃぶ台の方に戻っていった。
「いえ。新聞紙どうもありがとうございます」
拓がプランターとネットをウリヤと協力して静かに新聞紙の上に置き、首を伸ばして大きな声を出すと、礼を言われるようなことじゃねえよ、とざらざらした声がした。それから銀次が再登場した。手には数日分の新聞がある。彼はそれを拓の目の前に置いた。
「靴もびしょびしょだろ? たいして効果がねえかもしれねえけど、上がるとき中に詰めとけよ。新聞はいくらでもある。途中で取り替えるなりなんなり、好きに使え」
ぶっきらぼうな口調だが、垂れた目が優しく光っている。目の下の涙嚢が大きく膨らんでいて、中に本当に涙がたくさん入っていそうだと拓は思った。
「まだ、もう一人が作業してるんで、そっちを手伝ってきます」
拓は茜の元に戻った。そして、それから、支柱同士を順々に紐で結んでいく作業で悪戦苦闘していた彼女を手伝った。
――なあ、「ほんとにありがとう、かたはらいたい」ってあたしが言ってた、ってちゃんと伝えてくれよ、拓。
ヒワコは、ゆっくりと口の端を上げ、さっきよりだいぶ弱々しい声を上げた。
――わかった。今言う。だがな、「かたはらいたい」は、あんなにえらぶっちゃっておかしくて見てらんねー、ってことだぞ。お前の言いたいのは「かたじけねえ」じゃねーのか?
――そ、それだ。……どっちも、じいさんがテレビでいつも見てる『暴れん坊姫君』にはよく出てくるんだが。
ヒワコは肩で息をしながら、恥ずかしそうに首をすくめた。顔が真っ赤になっている。片脚の爪先も、くるんくるん左右に動いている。
――もし……万一じいさんの夢の中ででもじいさんと話せたら、『暴れん坊姫君』とか、じいさんの好きな時代劇の話もできるようにって、いろいろ覚えたつもりだったんだけどな。
ヒワコは目を逸らし、はにかんだように笑った。
それからまた、ヒマワリたちの間を進んでいった。
よほどのことが起こらない限り、叶うことのない望みだ。
けれども、そんな望みでもヒワコの心の支えになっているならそれでいいんじゃないか、と拓は思った。
ただ、言葉の意味はきちんと理解して覚えてほしい。意欲はあるみたいだが……バカなのか?
自分が昔、英語の期末試験で「selfish」(わがままな)を「魚売り」と訳したことを、拓はすっかり棚に上げていた。
拓の目には傷は見えないけれど、ヒワコはかなり痛手を負っているようだった。体のあちこちをぐっ、と押さえては離し、顔を顰めている。それでもまだ、ヒマワリたちの間を、一本一本に触れながら回っているのだ。ウリヤが同じような動作でそれを手伝っている。
「茜、ヒワコが礼を言ってるぞ。ほんとにありがとう、かたじけねえ、って」
「ほんと!? 嬉しい。要領悪くってごめんなさい、って思ってたけど、勇気百倍だよ!」
茜は辺りを見回しながら、白い歯を見せて笑った。髪が海藻のようによじれて額に貼りつき、雨がずっと顔に降り注ぐ状況で、しばらくの間ずっと笑っていた。
「今、ヒワコはお前に背後から抱きついて笑ってるぞ」
「そうなの? あ、ありがとね!」
拓と茜が銀次の部屋に戻ると、銀次が古びたタオルを二人に投げてよこした。
「どうもありがとうございます。あ、でもタオル持ってきてますし」
茜が慌てて言うと、銀次はにやっと笑った。
「一枚じゃ足りねえくらいだろ? どうせそれは捨てるやつだ。最後にもう一度ご奉公ができりゃ、タオルも本望だろう」
色あせ糸がほつれたタオルだったが、拓と茜にとってはこれ以上ないくらい暖かかった。二人は雨合羽を脱ぎ、全身を拭いた。
「ま、ちっと上がって乾かしていけ」
拓と茜は遠慮した。けれども少しあとから戻ってきたヒワコが
――聞いてやってくれ。じいさんも、お前らがいた方が嬉しいんだ。
と切実な顔で言ったこともあり、最終的には二人とも靴を脱ぎ、銀次がくれた新聞紙を靴に詰めた。
爪先や足の裏が青く染まったソックスは、脱いで生成りのバッグに入れた。
「すみません。じゃ、お言葉に甘えて」
「お邪魔します」
部屋は前に来たときよりも散らかっていた。ちゃぶ台の横で、新聞の山が雪崩を起こしていた。シンクの洗い物も溜まっている。ただ、エアコンは効いていた。
ちゃぶ台には、カップラーメンが三つ、あとは湯を注ぐだけの状態になっていた。
「こんなもんしかなくてすまねえけど、ま、多少はあったまるだろ」
銀次は次々にカップラーメンに湯を注いでいった。
三分後。
「いただきます」の言葉とともに、彼らは湯気が立つカップラーメンをすすった。
熱いスープと麺が拓の口いっぱいに広がり、喉越しにじわんと沁みて胃に落ちていく。熱さも塩気も、冷え切った体がまさに求めているものだった。たちまち腹から背中から、体中が温まっていく。
しばらく、麺やスープをすする音だけが部屋に響いた。
「おいしいです! こんなおいしいもの食べたことないって感じ」
茜がしみじみと、容器を両手で抱えた。
「ったく、ふだんどんなもの食ってんだか」
しょうがねえなあ、というふうに銀次は目を細めた。割り箸を持つ手が少し震えていた。
「いや、でも真面目に、美味いです。あったまるし」
拓も銀次の目を見ながら、口の端を上げた。
ヒワコが「いろいろ覚えた」ことの一例:『暴れん坊姫君』では、20時35分くらいになぜか姫が風呂に入る。




