26 夏 ヒマワリ 8
ヒマワリの存在を銀次がぜんぜん認識していないことに、落ち込むヒワコだったが……。
銀次は立ち上がって窓の向こうを見た。
「おお、咲いてるな。気がつかなかった」
「あれ、少し、仏壇に供えさせていただいてもいいですか?」
遠慮がちに、茜は銀次の表情を窺った。
ヒワコは跳ね起きた。すがるように茜を見る目に、星が輝いている。目に見えぬ猫の尻尾が高速で振られているのも、拓には見える気がした。
「いいよ」
「あ、でも庭ったって、大家さんのものじゃないのか?」
拓が疑問点を口にすると、銀次は、それは大丈夫だ、と言った。
「部屋を借りるときに、自分の部屋の前の庭は好きに使っていい、って大家が言ってたからな。へえ、俺の目にはちっとも入ってなかったよ、ヒマワリ。人間の目っつうのは、あんがい、見てねえもんがあるんだなあ!」
戻ってきてあぐらをかいた銀次は、首をひねりながら内腿を叩いた。
さっきヒワコが内腿を叩いてたのはこれか。拓はにやけそうになりながら、彼女を見た。
ヒワコは頬を緩めていたけれど、銀次がヒマワリの花に全然気づいていなかったことがちょっと残念なのか、嬉しそうな中に複雑な表情も覗かせていた。
「あー、ありますよそういうの! こないだも渋谷の交差点で友達に、今すれ違った人、よくテレビに出てる女優さんだったけどなんだっけ名前? って言われて、ごめんぜんっぜん見てなかったわー、って謝ったばっかりです」
茜は、両手の指をきっちりと組み、目を細めてしきりに頷いた。
「じゃ、取ってきますね。花瓶はありますか?」
「んな小じゃれたもんはねえよ」
銀次が口をへの字に曲げても、茜は動じない。
「そうですか。じゃ、酒瓶とかインスタントコーヒーの瓶とか、ある程度深さがあるものは?」
「酒瓶なら、まだ捨ててねえのがあるはずだ」
銀次はまた立ち上がり、流しの下をごそごそやった。それから、あったあった、と埃をかぶった四合瓶を持ってきて、ティッシュでそれを拭いた。
「ありがとうございます。ではちょっと失礼します」
茜はきれいになった酒瓶を受け取るとそれを自分の脇に置き、軽い足取りで出ていった。
すぐに茜は戻ってきた。ハアハアと肩で息をしている。花が咲いているのが一本、蕾がついているのが一本、ヒマワリが手に握られていた。
黄色い花びらは鮮やかで、くすんだ色みの部屋を一気に生き生きしたものに変えた。少なくとも拓にはそう思えた。
花びらの先が尖っていて、ピンと伸びたり微妙に曲がったりと一枚一枚が違う。それらが円く集まると、赤い炎が異なる高さで噴き上がる太陽に形が似ている。
雌蕊と雄蕊の茶色は、ヒワコの肌の色に近い。
スペード型の葉は、日の光を沢山受けようとしているように大きく伸びやかだ。
茜は酒瓶に水を入れ、ヒマワリの花を生けると、仏壇に供えて手を合わせた。
――くぅ! お前にはもったいねえほどいい女だなぁ―――!!
ヒワコは拓を見つめ、より大きな声で言いながら首をひねった。右手は見えないコップを握りしめている感じでちゃぶ台に置かれている。
――その手はなんだその手は。
――見りゃわかるだろ? エア飲酒だ。
――未成年が昼間っから酒飲むなよ!
――エアだから問題ねーだろ! 人間でもねーし!
ウリヤが、ンンッ、と咳払いをした。
――わたしも行ってくるわ。
彼女は茜の後ろに行き、仏壇に向かって合掌した。
拓も慌てて彼女を追い、ヒロシの写真を見つめた。
お祈りを終えた茜は、温かいまなざしを拓に向けて去った。
拓は目を閉じて手を合わせた。……充分休んだら、どっかで生まれ直して、次は思う存分生きてください。もっとかけるべき言葉がある気もしたが、それしか出てこなかった。
ヒワコも来るかと思ったけれど、彼女は来なかった。 彼女はエア酒のコップを握ったまま、じっと銀次を見ていた。
「ありがとな」
拓たちがお祈りを済ませて戻ってくると、銀次は静かに言った。
「わたしたちと同じくらいの年だったわね、息子さん」
「そうだな」
帰りは、拓も茜も口数が少なかった。二人の靴音と、生成りのバッグが体にこすれる音が響く。商店街は、来たときよりも買い物客が増えていた。
「つらいだろうね。子どもが自分より先に死ぬなんて」
茜は目を伏せ、思いつめたような顔で溜息をついた。拓は茜のこんな顔を見たことがない。
「かもな。俺には親の気持ちはわからんが」
「奥さんはなんで亡くなったの」
「数年前に病死したそうだ」
「そう。……そんなことまでわかるのね」
声が戸惑ったように揺れた。茜は拓の顔を見た。まだ何か言いたそうだったけれど、開きかけた口をまた結んでしまった。
「なんだ?」
「ううん、なんでもない」
そのあとはいつもの明るい茜に戻って、ヒワコやウリヤとのやり取りを詳しく聞きたがった。
銀次から電話がかかってきたのは、それからひと月ほど経った、もうすぐ夏休みというときだった。
この季節にしては珍しく台風がきていて、朝から雨も風も強く、空には、灰色に濃紺と黒が入り混じった重々しい雲が立ち込めていた。
帰りには台風が過ぎ去るかもしれない。拓は折りたたみ傘を持って学校に出かけた。けれども折りたたみ傘はあっという間に逆さにつぼみ、骨をパタパタ言わせて反ったり元に戻ったりを繰り返した。
その間にも顔や体に雨風が容赦なく吹きつけてくる。
「くそっ、話にならねえ」
既にびしょびしょになった体で拓はいったん家に帰ると、ワンタッチの大きな傘を持って再び外に出た。スーツ姿の男性たちや人により大小さまざまなバッグを持った女性たちも、拓や茜のような学生たちも、皆、傘を体の前に傾けて風を受けながら歩いていた。 学校に着いてからもずっと夕方のような暗さで、教室には一限目から蛍光灯が点いていた。
今頃、銀次の家のゴーヤーやヒマワリはどうなってるだろう。
見えるはずもないのに、つい、拓は窓の外を見てしまう。叩きつけられた雨の滴が無数の涙のように流れ落ちる窓の外で、校庭の木の枝がぐわんぐわん揺れていた。
放課後、すみやかに帰宅するようにとの校内放送が流れたが、拓は花壇の花がなんとか無事であることを確認し、園芸部の部室へと向かった。
部室には茜が来ていた。
「やっぱりね。拓はぜぇ―――ったい、来ると思ってた」
茜は部室のロッカーを開け、ビニールの雨合羽を取り出しているところだった。
「ちょっと! 今からそんなびしょびしょだったら風邪ひくわよ! これで拭いて」
茜はロッカーからタオルを取り出すと、投げてよこした。
「どうせ濡れるだろ」
「どうせお風呂で濡れるからって、プールからびしょびしょの体で帰る人は普通いないでしょ! 濡れてたら、雨合羽を着る意味もないし。部長が倒れたら、活動が不充分なものになるイコール植物の世話が不充分になっちゃうんだからね! そ・れ・で・も・いいのっ!?」
茜は雨合羽をテーブルに置くとずかずかと近づいてきた。そして拓の手からタオルを奪い取り、拓の頭や背中を超高速で拭き始めた。
「ちょ! 自分で拭けるっつうの」
拓はタオルを奪い返し、しぶしぶ顔や体をこすった。




