02 春 パンジー・ビオラ 1
拓はなぜ、高1にして緑高校園芸部の部長になったか?
【春 パンジー・ビオラ】
「春島、春島……この辺のはずなんだがな」
水原拓は、手にしたメモと辺りの家の表札とを見比べながら歩いていた。手には黒光りする学生鞄を持ち、肩には大きくて重そうな生成りのバッグをかけている。
通っている学校、私立緑高校から歩いていける距離とはいえ、足を踏み入れたことのない土地はどうも勝手がわからない。
ふだん通学に使っているのとは違う駅の前に広がるロータリーからは、縦横に何本も道が伸びていた。縦方向の細い坂道を上りきると、両側に大きな古い家や、新しめの小さい家々が建ち並ぶ広い道に出た。
「ママぁ」
向こうから歩いてきた幼稚園帰りらしき女の子が、拓の顔を見るなり母親らしき女性の陰に隠れた。
「シッ、見ちゃいけません」
母親らしき女性も、女の子の手を強く掴むと、足を速めた。
「んもう、また子どもを怖がらせて! 目つき悪いんだからせめてにこにこしなさいよね!」
一緒に歩いていた同級生の土屋茜が、厳しい目つきで拓を睨んだ。茶髪のポニーテールが揺れ、大きな目に空の雲が映る。
茜が溜息をつくと、襟と袖の縁が白い紺ブレザーに包まれた胸がたゆんと上下した。茜もまた、手にした学生鞄のほかに、膨らんだ大きなバッグを肩にかけていた。
「いいんだよ。笑いたくもねーときに笑う必要ねーし」
拓は再び、春島、春島、と呟きながら表札を見続けた。自分が気にしない自分の目つきのことを、幼なじみの茜がなぜ気にするのか、まったくわからなかった。
なぜ彼らはここを歩いているのか?
話は数日前に遡る。
緑高校では、ピカピカした新校舎とともに、花や葉、蔓などが唐草模様になったアラベスクの浮彫が正面の外壁に施された、古い旧校舎が保存活用されている。
新校舎を建てるときには、取り壊しの話が出た。けれども、専門家が「文化財的価値がある」と言ったり、卒業生や地域の人々が「歴史ある、思い出の建物だ」と保存運動を起こしたりした。また、旧校舎の解体にもそれなりの費用がかかることや、緑高校は私立校とはいえ金持ちの子どもはそんなに通っていないという事情もあって、旧校舎は残ったのだった。
その旧校舎には、一階から最上階である三階まで、文化系の部活動の部室や委員会室が並んでいる。演劇部、音楽部、軽音部、茶道部、天文部、美術部、文芸部、総務委員会室、美化委員会室、などなど。
一階の入口脇に、園芸部の部室がある。
昔、用務員の宿直室だったためか、広めの板敷きの奥に小上がりみたいな畳のスペースがあり、部屋には電話がついている。板敷きのスペースには大きな木のテーブルと数脚のパイプ椅子が置かれ、畳のスペースには小さなちゃぶ台と何枚かの座布団がある。
壁の一つの面にはチューリップ、スズラン、ヒマワリ、コスモス、スノードロップなどの、過去のカレンダーから日付部分を切り取った大きな花の写真がたくさん貼られている。
また、別の壁面には園芸雑誌を切り抜いた「年間園芸カレンダー」が貼られている。これには、一年から二年で一生が終わる一・二年草と、株が枯死せずに越冬し、毎年花が咲き実を結ぶことを繰り返す多年草とに分けて、何月に何をすべきかが書かれているのだった。例えば四月なら、一年草は「春の種子をまきましょう」と「アブラムシ大発生の危険あり! 駆除してください」、多年草は「昨年の寄せ植えを植え替えましょう」といった具合だ。
園芸部の電話が鳴った。
「はい、園芸部です」
拓は精いっぱい明るい声を出しているつもりだ。けれども向かいの家に住む幼なじみで同じく園芸部員の茜に言わせると、「やる気がなくテンションのめちゃめちゃ低い声」らしい。
電話の相手は、三十代か四十代くらいの女性で、高めのきれいな声にところどころ疲れが混じっているように聞こえた。
「あのぅ、わたし、花野区黄緑町二丁目に住んでいる春島と申します。実は緑高校の園芸部の皆さんが地域の人々のお手伝いをしてくださると伺って、お電話差し上げました。チラシにあった、部長の水原さんって方いらっしゃいます?」
「チラシ?」
「このあいだポストに入ってたんですよ。『地域の皆さまの、植物に関するご相談お待ちしてます』って。そこに連絡先として『部長 水原』ってあったんですけど」
拓の頭に、ネズミ顔をした男のにやける姿が浮かんだ。
「わかりました。部長の水原です。どうぞ続けてください」
拓はこの四月に緑高校に入学したばかりの高校一年生である。そして今はまだ四月だ。なのに部長とはどういうことか。
話はさらに二週間ほど前に遡る。
放課後、新校舎と旧校舎をつなぐ通路を歩いていると、旧校舎脇の花壇に、すぐ近くにあるグラウンドのフェンスを越えて、サッカー部の部員が蹴ったボールが飛んできた。
花壇では、赤、ピンク、黄色などのチューリップが咲き誇っている。
まずい。このままじゃ直撃だ。
思うより先に拓は走り出していた、ワールドカップ決勝戦におけるゴールキーパーのように腕を最大限に伸ばし、体をほぼ真横にして飛んだ。そしてすべての指を広げた手のひらでボールを弾き返すと、肩や脇腹、腰、脚などを盛大に地面に打ちつけたのだった。
ベチャ、という音とともに体が土の中にぬめぬめとめり込んだ。前の日に降った雨のせいで地面はまだぬかるんでいる。頬にも耳にも泥が跳ね、ブレザーもパンツも泥まみれだ。
「いってぇ」
腰をさすりながら立ち上がった拓はしかし、さっきと同じように風に揺れているチューリップを見て微笑んだ。花も茎も無事でよかった。そう思うと、痛みなど吹き飛んでしまった。
「君ィ、園芸部に入らない?」
背後からいきなり話しかけられて拓はびくっとした。
同じ制服を着た、面長で背が高い少年が、腕組みをして立っていた。髪がツンツン立っている。銀縁の眼鏡が、キラッと光る。
「いや、俺、部活なんて考えてませんから」
「でも君、いまァ、チューリップ守ったよね? チューリップのために、身を呈してぬかるみに飛び込んだよね?」
やや低めの、どこかおどけたような朗々(ろうろう)とした声が畳みかけてる。時々語尾が上がって妙に伸びる。
「べ、別にそんなんじゃ」
拓は斜め下を向き、尻についた泥を手で払った。ぬかるんだ泥がかえってパンツに浸み込んだ。しまった、と思ったがもう遅い。
「でも、立ち上がってチューリップ見たときィ、痛みも吹っ飛ぶって顔したよねェ。ヌフフ」
何という鋭い観察眼なのだ。拓が唾を飲み込み次の言葉を探していると、少年はポケットから携帯用ウェットティッシュをパックごと差し出した。
「使いたまえ。自己紹介が遅れてェ、すまない」
彼は二年生で、園芸部の部長だということだった。
「ありがとうございます。俺は一年の、水原拓です」
拓はウェットティッシュを受け取り、手や顔を拭いた。
「この花壇も、園芸部が?」
「そうだよ。しかし今後はァ、どうなるかわからない。なぜならァ……いや、やめておこう。興味のない人にこんなこと話してもしょうがないからねェ」
急に彼の顔が曇った。額に手まで当てているのがわざとらしい。そう思いながらも拓は尋ねずにはいられなかった。
「何かあるんですか?」
「知りたいかねェ?」
彼は眼鏡を押し上げながら、ニヤッとした。目の光が急に強さを増した。まだ春だというのに、拓には、彼の後ろに夏の陽炎が揺らめいて見えた。その空気に気押され拓は、はい、と頷いていた。