18 初夏 雨の日の部活 3
「そういえばお前、今日なんかつけてるか? 香水とか」
「わ、わかる?」
茜はシャキッと背筋を伸ばした。
水を吸い上げた花みたいだった。
「スミレの香りのコロンなんだよ。あ、コロンは、オーデコロンね」
茜は視線を斜め下に落とした。顔が赤くなっている。
「パンジーやビオラのはさすがにドラッグストアでは売ってなかったけど、これもいい匂いだなって。三色スミレとスミレだから仲間だし」
彼女は学生カバンから菫色の小瓶を取り出し、蓋をとった。
そして、シュッと空間にひと噴きした。
「いや、それはとんでもない偽物だ!」
拓は思いきり眉根に皺を寄せた。
「に、偽物!?」
茜は、あわあわしながら拓を見つめた。
「ああそうだ。スミレの花から採った精油も多少は使ってるかもしれないが、人工的な香料がいろいろ混じって、本物とは似ても似つかない臭えもんになってる!」
茜は真っ青になった。そして手で耳の後ろをこすると、その手を嗅いだ。
「つけたてとはちょっと違うけど、でも、わたしにはいい匂いに思えるよ? コスメサイトでも評判いいんだよ? これ」
「ほかのやつらはともかく、俺にはとてもそうは思えん。悪いがちょっと席を外す」
拓は廊下に出た。
それから止めていた息をぶはっと吐き出すと、鼻の下を手で激しくこすり、おそるおそる辺りの空気を吸い込んだ。
茜の香水の臭いは、鼻腔の奥まで入り込み、こびりついている。
気分が悪い、どころではなかった。
頭痛がし、悪寒がする。具合が回復しつつあった腸も、別の生き物のように唸り始めている。
拓は呼吸回数を減らし、速足でトイレまで行くと、奥の窓を全開にした。
ちょっとコンクリートくさい、湿った空気が一気に入り込んでくる。
拓は深々とそれを吸った。それからゆっくりと吐き出し、何度も深呼吸を繰り返した。
外の雨は弱くはないが激しくもない調子で淡々と降っている。
湿気で顔が濡れてきたたけれど、特に気にはならなかった。
誰もいなかったので、ついでに体側を伸ばしてストレッチをした。
やれやれ……。えらい目に遭った。
だが、茜にとってはあれが、あんなのが、よりによってあの代物が「いい匂い」なのか!
俺は園芸部の部長だ。部長は、部員が能力を最大限に発揮して植物の生育に寄与できる環境をつくらねばならん。
茜にとってはあの臭いが、きっと、部活に対するモチベーションを上げ植物のために尽力する原動力なのだろう。
とすれば、そこは俺の体調を犠牲にしてでも尊重せねばなるまい。
香水ではなく生きている花の匂いから活力をもらうというのなら、俺自身、何度となく経験してきたことだ。
しかし現実問題として、今、俺は花壇の花の種類も決められないくらい具合が悪い。
俺一人が防毒マスクなどつければ、茜はおそらくプレッシャーを感じてモチベーションを失うだろうし、二人ともつける必要はないし、一個であっても防毒マスクを買うとおそらく部費の予算オーバーだ。
どうすりゃいいんだ……。
握りしめた拳で壁をドン! とつき、拓は雨の校庭を眺めたのだった。
さらにトイレの個室で時を過ごした拓は、さっきより空の灰色が濃くなってきた頃、部室に戻った。
「遅かったわね。大丈夫?」
茜は心配そうな顔で拓を見上げた。
少し目が充血し、声が鼻声になっている。
「ああ、平気だ」
答えてから拓は、あれっと思った。
「さっきより臭いが薄くなってるな」
「窓、開けたから」
窓は雨風がぎりぎり入ってこないくらいまで開けられていた。ベージュのカーテンが、ひゅるひゅる揺らめいている。
「そうか!」
拓は拳で反対の手のひらをポンと叩いた。
「茜。俺には、お前がお前の好きな香水をつけるのを止める権利はない」
「はぁ?」
茜は、トラウマほじくり返さないでよ! みたいな困惑した顔をした。
「だからこれからも、好きなだけつけろ。ただし俺は、さっきの濃度では通常の状態で部活に取り組むことができん。だから……」
拓は落ち着いた顔で部室の窓を全開にした。
雨音がリアルに室内に響き渡り、雨が容赦なく吹き込む。。
カーテンがさっきより大きく揺れ、花壇の設計図やレシートが宙に舞う。
会計ノートや図鑑のページがバババババッとめくれる。
「ちょっと拓! みんな飛んじゃうよ!」
茜の悲鳴にも拓は動じない。
「こうして、どの季節、どんな天気のときも部室の窓を全開にしてさえいれば、お前が思う存分に香水をつけていても俺は普通に部活ができる」
拓は満面の笑みを浮かべ、床に散らばった設計図やレシートを淡々と拾った。
「もう! なんなのよこれ! わたしが普通じゃいられないっつーの!」
茜は顔を真っ赤にし、窓に駆け寄った。
そして、ピシャン! と窓を閉めると、四つん這いになってレシートを拾い始めた。
「そうか? いいアイディアだと思ったんだが」
「これから夏だからまだいいけど、冬とか風邪ひくわ!」
「ストーブをつけて、ダウンジャケットを制服の上に着れば大丈夫だと思うが」
今度は拓が困惑する番だった。
双方の立場を尊重した折り合いの付け方だと考えていたのに……いったい何が不満なんだ。
憮然としたまま、拓は茜とともに四つん這いになった。
そしてかなりの枚数の――といっても茜の方がもっと多くの枚数を拾い集めているレシートを、彼女に渡した。
「もういいわよ。あのコロンは、つけない」
立ち上がった茜は、毅然として言った。
「えっ! だって気に入ってたんだろ? あれ」
拓は唾を飲み込んだ。
「そうだけど、時間が経つと匂いも変わっちゃうみたいだし、……た……ううんなんでもない……こんな思いをするくらいなら、つけない方がまし」
「なんだ。なら、あんなに長時間、悩むんじゃなかった」
拓は鋭い目つきのまま、頭の後ろを掻いた。
茜が言う「こんな思い」、というのがどういうものなのか、拓にはよくわからなかった。
「長時間、悩んだ……の? わたしがコロンをつけ続けられるように? ほんとなの? それ」
「ああ」
上の空で返事をしながら拓は、待てよ、と思った。
茜は、ほかの香水なら、つけても匂いがずっと変わらないと思っているのではないか?
「なあ茜、香水はどれも、香料の揮発や皮膚の匂いとの混じり合いで、トップノート、ミドルノート、ラストノートっつう具合に香りが変わるぞ?」
「もう! こんなときに、薀蓄垂れるなぁぁぁあっ!」
窓ガラスをビリビリ震わせながら、茜は叫んだ。
けれども、その顔にはなぜか元気そうな笑みが浮かんでいたのだった。
部活の時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
一人壁ドン。
「雨の日の部活」はこれにて終了です。
ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。
日頃のご来場に心から感謝申し上げます。




