17 初夏 雨の日の部活 2
茜は、うつむいて何度か瞬きした。それから、遠慮がちに口を開いた。
「花の精が見える華眼師の能力って、おじいさまの代でいったん消えちゃって、拓の代で復活したのよね? なんで?」
「わからん」
雨音がさらに激しくなった。
「……そう。で、拓はさ、将来、どんな仕事をしようと思ってるの? やっぱり花関係?」
「何だよ急に」
拓は不思議そうな顔で茜の目を見つめた。
茜はどことなくもじもじしている。
「いや、ほら、来年には少なくとも文系か理系か決めなきゃいけないから、身近な人たちはどう考えてるのかなーって知りたくなって」
「俺はまだ考えてない。ま、どんな仕事をしていようとも、花は俺の生活とは切っても切り離せないものだが」
「切っても切り離せないもの、ねえ。なんか腐れ縁の愛人みたい」
茜は壁に張られた園芸カレンダーに目を遣りながら肩をすくめた。
「変なこと言うなよ! け、結婚もしてねーのに愛人がいるわけねーだろ」
拓は植物図鑑のページをやみくもにめくった。
「だって将来、誰かと結婚したって、ずーーーーーっと花や花の精のことを気にかけてるわけでしょ?」
「花だけだ! 花の精はどうでもいい」
「スミレさんの一件を見てても、とてもそうは思えないけど」
茜は腰に手を当て、ジト目で拓を眺めた。
「どう思おうと勝手だが、違うものは違う」
拓はむすっとして植物図鑑を手で押さえた。
それから、星型で青紫の花、イソトマの写真が載っているページに視線を落とした。
「茜こそ、どうすんだ、将来」
そう訊かれた茜は、頬杖をついて手のひらに顎を乗せた。
「うーん、数学や理科が好きだから理系に行こうとは思ってるけど、その先、何を勉強したいかは迷ってる。医学も面白そうだし、生物学や天文学も興味あるし。あーでも、文系の経営学とかも捨て難いか」
「今の時点でそれだけ考えてりゃ充分じゃねーか? 俺たち高校に入ったばっかなんだし」
拓は、睨むような目つきのまま明るく笑った。
ほんの少しだけ眦が下がった。
茜が目を見開き、顔を赤らめたことに彼は気づかぬままだった。
「最近、うちのお父さん、帰りが遅いんだよね」
レシートを見つつ購入した物品の品名や価格を会計ノートに書き写しながら、茜は言った。
「仕事が忙しいんじゃないか? うちのお袋もプロジェクトのリーダー役とかで、けっこう遅くなること多いぞ」
拓はまた無表情に戻って図鑑から目を上げた。
「でもこの間、夜中に喉が渇いて一階に下りてったら、お父さんとお母さん、小さい声で何か言い争ってて」
「そりゃ、喧嘩の一つや二つくらい、すんだろ、夫婦なら」
「だけじゃないの」
拓の言葉の終わりに茜の言葉が重なった。
「目が合ったら二人ともびっくりした顔で黙っちゃって。すっごい気まずい雰囲気になったのよね」
茜は顔を曇らせ、またボールペンを指先で回した。さっきよりスピードが上がっている。
「別にお前が原因ってわけじゃないんじゃないか? 子供に聞かせたくない話の一つや二つくらい、あんだろ」
「かもしれないけど、なんか二人とも表情が凍りついてたの。……あんなの初めて見た。こんな話、弟にはできないし」
いつもなら、たとえ落ち込んでも拓が二言、三言言えば立ち直る茜が、今日はまったく元気が回復しない。
ポニーテールまで心なしかうなだれている。
拓は、ふむ……と腕を組んだ。
「ま、もう少し様子を見たらどうだ? すぐに答えが出る話じゃねーかもしれねーし。こういうときは緑茶でも飲め」
拓はゆっくりと茜に語りかけた。
それから、立ち上がってテーブルの端に置いてある箱から緑茶のティーバッグを出すと、
「貸してみ、カップ」
と彼女に手を差し出した。
「あ、ありがとう」
茜は潤んだ目で切羽詰まった声を出した。そしてマグカップを拓に渡すと、唇をへの字に曲げた。
「どうした。腹でも痛いのか?」
「違うわよ!」
頬を膨らませている茜のことは意に介さず、拓は緑茶を淹れた。
そして茜の背後にまわると、マグカップを彼女の前に置いた。
ティーバッグで淹れたものであっても、湯気が立つ緑茶のそれなりに爽やかな香りが部室に広がる。
拓を見上げた茜の表情が、少しだけやわらいだ。
「そうね。ここであれこれ考えてもしょうがないか」
緑茶をひと口飲んだ茜は、ほおっと息を吐き出したのだった。
「お茶飲んだらお腹すいてきちゃった。……あのさ、今、マッカでウルトラマッカバーガー半額なんだけど、部活、早めに終わらせて帰りに食べに行かない?」
「わりい。ゆうべから腹の調子がよくなくてな。あ、部活はきちんとしまいまでやるぞ」
拓はそそくさと席に戻った。
「もしかしてさっきのって、自分がお腹の具合悪かったから?」
「違う」
即答だった。
「そう。まあ、仕方ないわね。あと一週間くらいは半額セールやってるから、今日はやめとこうかな」
両手で握りしめたマグカップを見つめながら、茜はさっきよりも長く息を吐き出した。
緑茶のティーバッグに印刷してある名作俳句には、微妙な空気がやけにいとおしいものが、たまにあります。




