15 春 パンジー・ビオラ 14
実際にビオラ本体を動かすことは、実はスミレに多大な負担を強いていた。
彼女が本当に言いたかったことを薫に伝えようか、と拓は提案した。
けれども、スミレはそれをきっぱりと断ったのだった。
――それから、薫ちゃ
言い終わらないうちにスミレの体全体が黄緑がかった光に包まれ、揺らめいた。
オレンジがかった金髪が四方八方に大きく広がって蔓草みたいにうねる。紫のグラデーション、白、レモンイエローから成るドレスも裾が広がり、翻り、光の粒子となって肌から飛び立っていく。
一糸まとわぬ姿でまばゆい光に包まれたスミレの姿かたちはたちまち薄くなり、爪先の方からどんどん光の粒子に変わっていく。
微笑みを浮かべた唇も、最後まで薫を見つめ続けた目も、すべてが細かい光の粒子となって空に昇っていった。
眩しさに目を細めながら拓は、光の粒子が消えるまで、空を見上げていた。
「どうしたの?」
寄ってきた茜に訊かれ、拓は仏頂面で答えた。
「急な雨が来ないかどうか、ちょっと見てる」
「へぇ。こんなに晴れてるのに?」
茜は横目で拓の目の奥を覗き込んだ。 薫も立ち上がってこちらに来た。
「メッセージ、『アリは働き者』か『アリ、母、タラ、着物』かわかんないけど、とにかくここにいるっていうのはわかったからって、スミレって人に伝えて」
薫の目は、無邪気に輝いている。
――おせーよ。
喉まで出かかった言葉を拓は必死で飲み込んだ。
深々と息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
さっきよりももっと冷静になるんだ。瞬きもするな。とにかく、薫には何も気づかれてはいけない……。
そして、顔色一つ変えずに、わかった、とだけ答えた。
「伝えてくれた? なんて言ってる?」
自分の背中に手のひらを当ててきた薫に、拓は背中越しに諭すように言った。
「今いねーんだよ、スミレさん。なんでも花を動かすのは特別で、事前でも事後でもいいんだが、手続が要るそうだ。で、今、その手続に行ってる」
そして自分たちの近くに、服と髪の色だけスミレと同じで、髪が短い女性が立っているのを見た。
拓が首から上だけで頷くようにして挨拶すると、彼女もほとんど首から上だけの会釈を返してきた。
「そう」
がっかりしたように、薫は拓から離れた。
「じゃ、また戻ってきたらそのとき話そうっと」
「ちょっと待て」
拓は咄嗟に腕を伸ばし、薫の腕を掴んだ。手首か肘と思ったのに、二の腕を掴んでしまった。
拓の手にすっぽりおさまる細い二の腕は、肩よりずいぶんやわらかく、拓はすぐに手を離した。
「すまん。痛くなかったか」
「大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」
拓は深呼吸して、薫に向き合った。怖い顔をしない、とか脅すような声でなく、とか、そんなことはもうどうでもよかった。
「お前は何か期待してるかもしれないが、あれは本当に特別だったんだ。今後、スミレさんとあんなふうに話すことはない。そのことは覚えておけ」
薫はふうん、と言ったきり黙ってしまった。何か考えているようでもあったけれど、特に口にはしなかった。
後片付けをしている間も、薫は楽しそうに話をし続けていた。
ほんとに、伝えなくてよかったのかよ……。
こぼれた土やちぎれた葉を箒で掃いている間も、拓は一人、考え続けていた。
「わかってるんじゃないかな、薫ちゃん」
ごみ袋を持ってきた茜が、耳元で囁いたので、拓は箒を取り落としそうになった。
目を見開いたまま雷に打たれたように突っ立っている拓に向かって、茜はウィンクした。そして小声で付け加えた。
「子どもだけど、意外と子どもじゃないんだよねー、中学生って」
「お前もわかってたってことかよ?」
「何年そばにいると思ってるの」
茜は強気な笑顔を浮かべてまた拓の耳を引っ張った。それから、
「詳しくはわからないけど、スミレさんって人、もういないんじゃないの?」
ごみ袋の口を広げ、拓がちりとりで掻き集めたごみを受け取りながら、彼女は寂しさの混じった顔で拓の目を覗き込んだ。
拓が黙って頷くと、茜は、ぽつんと呟いた。
「『覚悟を持った好き』、か」
後片付けがすべて終わり、拓と茜が春島家を去るときが来た。
「これに載ってる本やネットで調べてもわからなかったら、相談するから」
少し前に拓に渡された、参考図書が書かれた手書きコピーの紙を握りしめて、薫は二人を見送った。彼女は、かなり長いこと手を振り続けていた。
「……薫さん、明日からもずっと元気でいてくれるといいけど」
茜が、園芸用具で膨らんだ、拓と揃いの生成りのバッグを体の前に持ってきながら、拓の顔を見た。
「ま、そんなに期待すんな」
「でも、心配だな」
「あいつやあいつの母親が何か言ってこない限り、俺たちはもうあいつに会うことはない。俺たちにできるのは、植物関係のことだけだ。深入りは禁物だ」
拓は厳しい視線を茜に向け、低い声で言った。
茜は、そうかもね、と控えめに笑った。
そのとき、後ろから走ってくる自転車があった。
「さっきは、どうも」
キィィーッとブレーキをかけたのは、薫だった。むすっとしているが、口角は上がっている。
彼女は、ジャージをジーンズに穿き替えていた。
「ども、お疲れ」
「お疲れ様」
拓と茜も短い答えを返した。
「本屋行くんで、じゃ!」
夕日に向かって再び自転車を漕ぎ出した薫の後ろ姿は、オレンジがかった金色の光に包まれていた。
ここまでお読みくださいまして、本当にありがとうございました。
日頃のご来場に心から感謝申し上げます。
連作短篇のうち「春 パンジー・ビオラ」はこれにて終了です。
連載自体はまだ続きますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。




