12 春 パンジー・ビオラ 11
拓と体が接触していることを通じて、また薫にスミレの声が聞こえ……。
「何? また声がしたんだけど? ラジオ? でもわたしの名前呼んだ。……遠隔操作で監視? 盗撮とかじゃないよね!」
まだ肩に置かれていた拓の手を薫は振り払おうとした。けれども手はびくともしなかった。
拓は冷静な顔で、まっすぐ薫を見つめた。拓の目の中には、バラの棘よりも鋭い、強い光が生まれている。
「盗撮なんてしねーよ。監視もない」
「じゃ、なんなの? あの女の人の声。何度も聞こえた」
「……」
拓が言葉に詰まっていると、スミレが、薫の肩に置かれた彼の手に自分の手を重ねた。指も爪の丈も長い、ほっそりした白い手だった。
茜は両手の指を固く組んで拓の視線を追い、薫の表情を見守っていた。
拓は、深呼吸してから口を開いた。
「あの声は、お前を見守ってる人の声だ。今も、『好きなように説明してください』って言ったろ」
薫は、信じられないというふうに目を見開き口も半開きにしたまま、突っ立っている。
「ふだんは、彼女の声は俺にしか聞こえない。ただ、お前と俺の体が接触してるときだけ、俺を通じてお前にも聞こえるんだ」
「誰なの……? その人」
薫の顔に怯えが浮かんでいた。
「花の精だ。パンジー、ビオラの」
「はぁ? ……ふざけてんの?」
腕組みをしながら薫は拓に一歩近づき、ぐっと顎を上げて拓を睨みつけた。
「ふざけてこんなこと言うわけねーだろ!」
「だって、そんなのあるわけないもん! あ、わかった。腹話術かなんかでしょ? いくら中学生だからって、騙されないよ!」
薫は、白い歯並びやピンクの舌まで見せながらまくし立てた。
拓空いている手で拳を握りしめながら、溜息をついた。
「すぐには信じられねーかもしんねーけど、あるもんはあるんだよ! 現実を見ろ!」
――二人同時に別々のことを喋ってたら、腹話術じゃないって信じてもらえるかしら。
拓の声に、スミレの声が被さった。
薫は落ち着かない様子で辺りを見回した。
「ど、どこにいるの?」
――薫ちゃんの横にいます。
「嘘。見えないし。どうせ、監視カメラのモニターか何かで見てるんでしょ? キモい!」
薫は肩を拓に押さえられたまま、バスケットボールのピボットみたいに片足を軸にして体を回転させ、屋根や庭木を見た。
「だから、そういうんじゃねーって。あとキモいとか言うな!」
努めて抑えていてもいらだちを完全には隠せない拓を、スミレが制した。
――急にこんな話をされて、混乱するのは当然よね。気持ち悪がられても仕方ないと思います。でも、本当にあなたのそばにいるんですよ。
「いったいどういう状況になってるのか、いい加減わたしにも教えてくれない?」
ぽつんと立っていた茜が、すっかりむくれて、拓の耳を引っ張った。
「おう、わりぃ! そうだ茜、そのまま俺の耳をさわってろ」
「あ、そう」
茜はさらに強く耳を引っ張った。拓の体がやすやすと彼女の方に引き摺られた。
「いてててて! 引っ張んな! たださわるだけだ。そうすりゃ、スミレさんの声がお前にも聞こえるはずだ」
「え、そうなの」
引っ張るのはやめたものの、茜はすべての指でぎゅっと拓の耳を掴んだ。
「むぎゃー!」
最大のダブルクリップで挟まれたってこうは痛くないんじゃないか。拓は涙目になった。
――名前はスミレ、年は人間でいうと見た目、二十歳くらいです。
「ほんとだ。聞こえる。優しそうな、きれいな声だね」
茜は目を輝かせて拓の顔を見た。
「もっと強く掴むともっと大きな声が聞こえる?」
「いや! ぜってぇーそんなことないから!」
茜には拓の言葉は届かなかったようだった。茜のやつ、俺の耳たぶを、ラジオの音量調節つまみか何かと勘違いしてるんじゃねーのか……。拓は、自分の耳たぶが激しくひねられもみくちゃにされるのに、ただただ耐えた。
――この地域のパンジー、ビオラの精として、薫ちゃんを見てきました。わたしにはなんにもできないですけど、あなたにいいことがあったら嬉しいし、あなたが悩んだりしょぼんとしてたりすると、こう、胃の辺りが……あ、わたし植物なのになんでやねん、って感じですけど……痛くなるんです。
素で自分突っ込みをしながら、スミレは薫の目を見、話し続ける。
薫がせわしなく視線を動かしているので、スミレが自分の場所を教えた。
――こっちですよ。あ、もう少し左。そう、その辺りですね。薫ちゃんからは見えないでしょうけど、今、視線がばっちり合ってます。
――薫ちゃんにはいつも笑っててほしいし、それが無理でも、一人じゃないんだ、って知ってもらえたら、嬉しいです。もちろん、あなたと常に意見が同じわけじゃないです。なんであんなにおいしそうなお母さんのご飯を残すのか、とか心配になったりいらいらしたりすることもあります。
ご飯、の辺りで薫の目が大きく見開かれた。目の中でちろちろと光が揺れる。
――でも、どんなにひとりぼっちみたいな気持ちになっても、あなたに幸せになってほしいって思ってる者が一人は必ずいるってことを、……あ、一人って言っちゃっていいのかし ら、植物なのに……まあ、細かいことは気にしないでね……なんだっけ。そう、薫ちゃんに幸せになってほしい、って思ってる何かが一つは必ずいるってことを、忘れないでください。
薫の顔や体から殺気や緊張感みたいなものが少しずつ消えていくのを、拓は茜とともに見守っていた。
「まだ信じたわけじゃないから。……でも、もしほんとなら、……ありがとう」
少し顔を赤らめ、真顔で、薫は言った。スミレと視線は合ってはいないけれど、大ざっぱには、二人は向き合っているといえる位置関係だ。
スミレの青い目に明るい星のような光が宿り、体全体がぼうっと輝いた。後光が射しているみたいだった。
――そんな、お礼を言うのはわたしの方です。
彼女は天を仰ぎ、視線を戻すと薫に駆け寄った。そして薫を抱きしめ、短い髪を目を閉じて何度も撫でた。
抱きしめられている自覚のない薫は、体を拓と茜の方にひねった。宙を抱くかたちになった スミレは目を開けて腕を下ろし、照れたように拓たちに笑いかけた。
「二人にも、聞こえてるんだよね、今の」
「当然」
「聞こえてるわよ」
拓と茜は、大きく頷いた。
「……疑うようで悪いんだけど、その、スミレって人がほんとにここにいるってことを、何か 見せてもらえないかな」
両手の指を開いたり閉じたりしながら、薫は上目遣いで二人を見た。
拓がスミレを見やると、彼女は、下がりそうになる唇の端を必死で上げているように見えた。




