11 春 パンジー・ビオラ 10
「人間は眠いと起きられなかったり、落ち込むと外に行くのが億劫になったりする。……けど、植物って、育って、花が咲いて、実を結んで、枯れて、ってのを淡々と―― もちろん俺から見て、に限った話だけど、やってんだよな。ほんとすげーと思うし、そういうの見てると、なんつーかこっちもシャキッとしてさ」
――いやぁ、それほどでもないですよ。
スミレが目の前で顎を反らして立ち、後ろ頭を掻いていたけれど、拓は見なかったことにした。いや俺がシャキッとするのは人間の姿をしたあなたじゃなくて、パンジーやビオラそのものを見てるときだから! と胸のうちでだけ呟いた。
「でも、そこまで花が好きになれるかな、わたし」
黒くにじむようなブロッチのある黄色いパンジーを不安げに見つめ、目と眉を歪めて薫は拓を見上げた。
彼女に向かって、怖い顔にならないように努めながら拓は笑いかけた。
「別に花でなくたっていいさ。なんか好きなもの、あんだろ。なけりゃ、探せばいい。……すげー好きなものがありゃ、どうしようもねーときも自分を支えられるし、厭なやつと無理してつるむ必要もない」
「好きなもの……」
薫は口を尖らせ、視線を左右に揺らしながら作業を続けた。
――俺の手にすっぽり入っちまい そうな小さい手なんだな。子猿みたいだ。拓は、初めて気づいた。
「……絵を描くのは、好きだな。シャーペンでノートに落書きするのも、パソコンで描くのも」
「そうか。じゃ、もっと続けろよ。ただし、ちょっとやそっとの好きじゃだめだ。ほかの何がなくなっても、それさえあればいい! ってくらいでねーと」
「それさえあればいい」のところは、一段と拓の声が大きく、うねるような響きを持った
えぇっ、と薫が眉を顰めて口を半開きにした。
「そのくらい『覚悟を持った好き』、じゃねーとだめだ」
「友達いなくなっても、家族が死んじゃっても、食べるものなくなっても、花があればいいの?」
顎を首につけるようにして、上目遣いで薫は尋ねた。
「ああ」
拓は何の迷いもなく言い切った。すぐそばで茜が複雑そうな表情を浮かべていることにはまったく気づいていなかった。
「でも、最初っからそこまでの覚悟がある人なんて、あんまりいないかもよ」
笑顔に戻った茜が、淡々と言った。
「やってるうちにいつの間にかすごく好きになって、ってのも大いにありだと思う。人を好きになるのだって、そうじゃない? 出会った瞬間から『何がなくなっても、その人さえいればいい』って覚悟ができる場合の方が、むしろ少ないかも」
「変なもんで例えるなよ。知らねーよ、んなもん。どっからそういうリンクになるんだ」
「『好き』つながりでしょ?」
薫が急に、大人びた顔をした。彼女は斜め上に目をやり、照れたように笑った。
「ストーミーレヴォリューションも好き」
頬が赤くなっている。
「そいつは知らん」
上目遣いで拓が答えると、薫がびくっと震えた。あ、今、三白眼になってたんだろうか、と思いながら、拓は大きく息を吸い込み、小さく吐き出した。
「男性アイドルユニットの名前よ」
茜が首を伸ばして補足した。
「……でも、ひとりぼっちだなって思うと、ストーミーレヴォリューションのことは頭から吹っ飛んじゃう」
――一人じゃないんだけどな……。
薫の横で、スミレがしゃがんで頬杖をついていた。
拓と目が合うと、寂しそうに笑ったまま、視線を落とした。細くて長い睫毛が風に揺れ、頬の辺りに繊細な影を生じさせている。
その顔を見ていると、拓の胸のうちにも、もやもやしたものが広がった。
この人のことを言うべきなんだろうか? 薫に。
いや、しかしびっくりすんだろ、普通……。
「あえて思い出すってのはどう? つらくなったら、絶対思い出すの。ストーミーレヴォリューションのこと」
任せなさい! みたいな明るい声で、茜が重い沈黙を破った。
「強制的に?」
薫が首を伸ばして茜を見つめた。
「そうそう。もう条件反射ってくらいに」
拓は茜に感謝した。それでもスミレのことが解決したわけではない。
スミレは、そばにあるビオラの花に触れていた。
あれっ、と拓は目を見開いた。スミレの細く長い指に触れられたビオラは、軽く押さえられるままにそっと花や茎を曲げている。
―― なんで曲がってるんだ? 物理的影響力はないはずじゃ……。
スミレは寂しそうに微笑んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
―― パンジー・ビオラの本体には実際さわれるし、動かせるんです。同じ種類だからなのかどうか、わたしにもわからないんですけど。
それからまた、三人は黙々と作業に取り組んだ。
「よし、これでラストだ」
拓と茜が見守る中で、薫が最後に植えた苗の根元にかぶせた土を、手のひらで固めた。
「お疲れ様!」
「お疲れ。石鹸つけてよく手を洗っとけよ。土には破傷風菌もいるしな」
茜と拓が薫に声をかけながら立ち上がった。
「きれい……」
立ち上がった薫が溜息をついた。
オレンジ、白、濃い青、薄い青、黄色、クリームイエロー、薄紫、赤紫、紫……、様々な色 と大きさのパンジーやビオラの花が、一面に咲いている。
薄い青とクリームイエロー、赤紫と 白、というように一つの花の中に二つ以上の色を持つものもある。
少し引いて見ると、一つ一つの花を見ているときとはまた違う、色同士の組み合わせが作り出す美しさがある、と拓は思った。
近くで見ると並んだ点々や絵の具のなすりつけ、離れて見ると人や物が浮かび上がる、モネやスーラの印象派の絵にも通じるものがある。
どこか無機的な薫の家に、人が暮らしているっぽい、活き活きした表情が加わった気がした。
「ま、まだ隙間がいろいろあるけど、すぐに花も葉も育つ」
「雑草も生えてくるだろうしね」
茜がおどけたように言うと、拓は低いテンションで反論した。
「雑草って草はない。それぞれ名前があるんだぞ。カタバミ、ハコベ、ハルジオン、オヒシバ、メヒシバ、アカザ……」
最後の方は茜も薫も聞いていなかった。
「ちゃんと世話しろよ。植物によっても違うが、パンジー、ビオラの場合は水やりの基本は『乾いたらやる』だからな」
「うん……わからないことがあったら、訊いてもいい?」
まっすぐに自分を見上げる薫に、拓は手袋を外した手でポケットから一枚の紙を差し出した。
「いいけど、本でもネットでもいいんで、まず自分で調べてからな! こっちもそんなに暇じゃねーし。参考図書はここに書いてある」
部として購入しようとしている本のリストがこんなところで役に立つとは思わなかった。
薫は、受け取った手書きコピーの紙を食い入るように見つめた。そして、本屋で探してみる、と顔を上げた。
それとさ、と拓は薫のそばに立っているスミレにも目をやりながら付け加えた。
「お前が気づかなくても、お前のことを見てるやつはいるかもしれねーんだから、あんまり、一人きりだとか思うなよ」
「どういうこと?」
薫は訝しげな顔で首を傾げる。
薫のすぐ横で、スミレが目尻を下げて手を振っている。
すっげーやりづらいんですけど、という言葉を唾とともに飲み込んで、拓は後ろ頭を掻いた。
「なんつーかその……、特に何も言ってこなくても、見守ってるやつがいることもある、ってことだ」
スミレが、ウィンクしながら拳の上の親指を拓に向かって突き立てた。
それから、また長い手脚を伸ばして踊り始めた。
紫等のグラデーションと白とレモンイエローから成るワンピースが、何度もふわぁっと風に翻る。
花を植える前に比べて、手脚の隅々(すみずみ)まで力が漲り、踊りに伸びやかさとキレが加わっているように拓には思えた。
苗をポットから広い土に植え替えたため、伸び伸び呼吸できているせいだろうか。
いや、それだけではないのだろう、きっと。
「は? 何言ってるかわかんない」
薫は口を尖らせた。
「わかんなくていいから覚えとけ」
「納得できないのに、覚えてなんかいられないよ。気休めでそういうこと言うの、やめてほしい!」
頬を膨らませ、片目を顰めて、彼女は拓に背を向けた。両手がだらんと脇に垂れている。
「気休めじゃねえって!」
拓は肩を掴んで彼女をこちらに向かせた。
――あっ、拓さん、あんまり強くしないで! 薫ちゃんが痛くなっちゃいます!
――わかってますって! 痛くないようには加減してます。
うなだれて丸まっていた薫の背がシャキッと伸びた。
彼女は驚いたように辺りをきょろきょろ見回した。




