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10 春  パンジー・ビオラ 9

「なんだか、森みたいな匂いがする。木の匂いよりはちょっと尖ってるっていうか、苦そうな感じ」

「苦そう? 面白いこと言うね」

 茜も手袋を外して土に手を置いていた。

「ほんとやわらかいわ。あー、いやされる。匂いは、……うーん、わたしは苦そうとまでは思わないかな。でも、鼻の奥深くまでなじむ匂いだわ。薫さん、森に行ったことあるの?」

「うん。小学生のとき、家族で長野の方に旅行して。フィ……なんだっけ、木のいい匂いがした」


「フィトンチッドね。拓に聞いたことある。木の化学成分。さわやかな香りがするだけじゃなくて、細菌なんかの微生物も確か抑制よくせいするんじゃなかったかしら。森林浴しんりんよくって、木から出てるフィトンチッドを森や林で浴びてるのよね」

「フィトンチッドか。……覚えとこ」


 薫は土に指で、「フィトンチッド」と書いた。指で作ったくぼみはすぐにさらさらした別の土でおおわれた。けれども、目に見える文字が残らないのは別に問題ではなく、指で書くという動作が覚えるためには大事なのだと彼女は強調した。

「あーあ、もっと広かったら、寝転がってみたいなあ」

 薫が背伸びしながら独り言のように言ったので拓は、

「まだ植えてないから、汚れていいんならやってもいいぞ」

と答えた。

「やめとく。表面はやわらかくないところもあるし」

 薫は頬がゆるんでいた。


 ――じゃ、わたしが代わりに。

 スミレが、まだ何も植えていない土の上に仰向あおむけに寝転がった。目を閉じて手脚をリラックスした感じで伸ばしている。

 紫のグラデーション、白、レモンイエローから成るドレスやオレンジっぽい金色の髪が風に揺らめくさまは、野原いっぱいのパンジーやビオラがそよ風に吹かれるさまに通じるものがある。―― 当たり前と言えば当たり前なのだが。


 ――気が済んだら早くどいてください!

 拓は、胸のうちでささやいた。

 ――えー、でもこのまま植えても何も実害ないと思いますけど。ほら、ふだんは垂直方向の姿勢が多いから、水平方向って、新鮮。

 ――……腹越しに土にハンドスコップ突き立てたり、顔のど真ん中越しに穴開けて花を植えたりするのは、気が進みません!

 ――あら、意外とデリケートなのね。

 本当に驚いたというように口に手を当てて立ち上がると、ふふ、とスミレは肩をすくめたのだった。


「じゃ、いよいよ植えるぞ。根鉢を崩さないようにしながら穴に苗を置いて、周りを土で埋めていく」

 あ、それから、と拓は付け加えた。

「最初にざっとは取り除いたつもりだが、もし、土の中に大きい石やガラス片、廃材はいざいなんかがあったら、取り除いてごみ袋に捨ててくれ」

 三人とも、真剣な顔に戻る。苗を穴に置くとき、薫が苗の匂いを嗅ぎ、拓と茜の顔を見た。



「ビオラって、いい匂いがするんだね……」

「気づいたか。甘くて、気品があって、安らぐような、高ぶるような匂いだろ……拓はフッと笑い、自分も濃い青のパンジーの花に顔を寄せ、鼻の穴を膨らませて深々と息を吸い込んだ。

「どれどれ? ほんとだ!」

 茜も、目を閉じてオレンジ色の花の匂いを嗅ぎ、もう一度花びらに自分の鼻をくっつけた。

「花によって少しずつ匂いも違うから、ほかのも嗅いでみるといい。ハチに注意だけど」

 拓がそう言うと、薫も茜も、ケースの所に行って首を突き出し、いろいろな色の花に顔を近づけていた。

「微妙に匂いが違う……どれも『いい匂い』だけど、その言葉にはおさまらない感じ……」



「はたから見たらすごく変な光景だよね。これ」

「いいんだよ。誰がどう思おうと。あ、ちなみに、花の中心にある大きな模様は、ブロッチ。これも黒とか濃い紫とか、黄色とかいろいろあって、黒い筋が入ってるのはヒゲと呼ばれるんだ」

「へえ!」

 薫たちは各花のブロッチを見比べ、色も面積も模様もそれぞれ違うことに感嘆かんたんの声を上げた。

「同じビオラって言ってもこんなにいろいろなんだ……」

 薫は何度も首をひねっていた。


「あと、匂いはいいが、パンジーやビオラの種や根には毒があるからな。ビオリンとかサポニンとか。だから食うなよ!」

「食べない!」

「食べないわよ!」

 薫と茜の声が、春の野にふさわしい……かどうか非常に疑問なハーモニーをかなでた。

 拓は素知らぬ顔で、植え替えスペースに戻っていった。

「さ、土をかけるぞ」

 また三人並んで、苗の周りに土をかけていった。三人とも手袋は外したままで、根鉢を崩さないようにしながら、ハンドスコップで土を運び、少しずつ穴を埋めていく。


「失礼しちゃう! 花を食べるほど飢えてないし、食欲旺盛おうせいじゃありません!」

「ああっ、そんなふうに力任せに土を押し固めちゃだめだ、茜。相手は生きてるんだぞ! そっとやれ、そっと」

「もう。失礼なこと言っといてどの口で言うのかわからないけど、まあ、植物に罪はないわね」

 妙なところで冷静な茜だった。

 その間、薫は、ときどき二人の会話に吹き出しそうになりながらも、黙々と土を苗の周りにかぶせていっていた。

「やっぱりポットの中よりも、広いところの方が合ってる気がする」

 花とギザギザのある楕円形の葉とを風に揺らしながら、ビオラは、まっすぐ茎を伸ばしている。

 それを見て、誰にともなく薫は呟いた。

 うん、うん、とスミレが横にしゃがみ込んで首を縦に振っていた。


「全部かぶさったら、根元のところをちょっと固めるようにして、終わりだ」

 拓が土をパッパッと手のひらで押さえると、茜と薫もそれにならった。

「おぉお……」

 植え替えスペースの左手前に、濃い青のパンジー、白いビオラ、オレンジのビオラが並んだ。

「なかなか、いい感じじゃない」

 茜が薫と拓に向かって言うと、二人も頷いた。


「きれい」

「濃い青とオレンジで並んでも鮮やかだが、白が間に入るとやっぱりやわらかい色合いになるな。ま、これはじょくちだ。まだまだ、植えるのは山ほどある。それから、黄色くなってたり白く粉がふいてるような葉は取り除いてくれ」

 三人は再び、植え替えに取り組み始めた。

 三人とも、そんなに時間が経たないうちに、シャツやTシャツの背に前衛書道ぜんえいしょどうみたいな汗染みができた。

「ここは黄色でいいかしら?」

「うーん、……ピンクに少し黄色が入ってるのの方が、隣りの紫と合う気がする」

 薫も、少しずつ口数が増えてきた。

「あ、ほんとだ。きれいなグラデーションになるのね。じゃ、そっちにしよう」



 しばらく作業を続けていると、薫が拓に話しかけてきた。

「あの、さ……、学校行きたくなくなったこと、ある?」

 薫はポットから、少し慣れた感じで苗を抜き取り、穴の中央にえる。目は、苗と土にやったままだ。

「ある。ほぼ毎朝だな。ねみーし」

 拓も苗の周りに土をかぶせながら、ちらっと薫を見た。

「でも行ってるんでしょ?」

 拓と薫の目が合った。

「まあな。家にいると親になぐられるし。学校にいた方が安全だ」

「……そうなんだ。学校にいる方がつらいことは、ないの?」


 そうだなあ、と拓は一瞬、ハンドスコップを持った手を止め、空をあおいだ。

「何あいつ、みたいな目でこそこそ悪口言われたり、靴箱開けたら上履うわばきいっぱいに金ぴかの画鋲がびょうが入ってたりしたことはあるけど。クラスのほぼ全員が急に俺に口をかなくなったってのもあったな。どれも中学んときだ」

 口調は相変わらず淡々としていて、作業もまた、それまでと変わらず続け始めている。

 下を向いて作業していた茜が顔を上げ、えー、何それ知らないよわたし、みたいな表情で拓を見た。

 拓は少しだけ首をかしげた。


「それ、かなりつらいじゃん……」

「そうか? 別に気にならなかったけどな。新品の画鋲が大量にあるとこんなに美しいのか、と は思ったが」

「仲よくしてくれる人がいたの?」

「クラスでは、一人で行動してることも多かったな」



「なんで? そんな目に遭って、どうして普通にしてられるの?」



 薫の声が急に大きくなった。目の中で、光が細かく震えている。

「手、止まってんぞ。手を動かしながら聞いてくれ」

 あ、と言いながら薫は、いつの間にか足元に転がしていたハンドスコップを拾い、穴の中に土を入れ始めた。


「長くったって三年だろ?」


「え?」

「中学にいる時間だよ。永遠にいるわけじゃない」

「そうだけど……」

 薫は再びうつむいた。

 拓はまた、次の穴を掘り、ポットから苗を素早く取り出した。


「なら、その日からカウントダウンすりゃいいだけだ」


「でも高校も、同じことかも」

「んなもん、行ってみなきゃわかんねーだろ。行く前から心配すんなって。それに高校だって、三年だ」

 薫はまだ、納得できない、という顔のまま手を動かしている。



「大人になったら自分の足で行きたいところに行ける。好きなところに行っても補導ほどうされたりしなくなる。学校は、卒業したときに選択肢せんたくしをたくさん持てるようにするために行ってる部分もある」


「選択肢……」

 薫は、自分に言い聞かせるように繰り返した。

「あと俺は、花が好きだからな。厭なことがあっても、花のことを考えたり、花の世話をしたりしたら、なんとかなっちまう。単純なのかもな」

 眉根に皺を寄せて唇を噛み、はっとしたように急にハンドスコップをせわしなく動かす薫を見ながら、拓は小さく笑った。

「長くったって○年」と決まっていればいいなと思うことがあります(←人生のことではありません)。

フィトンチッド欲しい。

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