求不得苦
「と、取り敢えず……此処まで来れば大丈夫なんじゃ、ねえか?」
「ああ。多分……大丈夫だ。」
その言葉に安心し、クレアをそっと地面に寝かせてその隣に横たわった。
疲れた、非常に。
確かにクレアは軽かったが、それでも抱えたまま5km走るのはさすがに無理があった。
まあ、5kmってのは俺の体感だから本当はどんなもんか分からんが。
「アリスから、これだけ離れれば……『ヴェストリーチェ』も、届かない……っ!」
「うおおいおい!大丈夫か?!」
余程疲れていたのか、サエッタが転がる様に倒れた。
「さっきのあれの影響か?」
「……ああ。『電雷華』を使うと、俺に対して約0.01Aの電流が……流れる。そのせいで、使った腕はボロボロになって……しまう。」
「……よく分からんがとにかく休め。俺が見張っとくから。」
「済まない……。」
そこまで言うとサエッタはいきなり寝息を発て始めた。
寝付き良すぎるだろ。
「さて、これからどうするか。」
アリスの事は、まあ状況がよく分からんから置いておくとして。
雨とマラッティーアだ。
多分あの二人の通信機も壊れちまってんだろう。
じゃなきゃ連絡が着てる筈だからな。
雨なら、アートの有効範囲内に俺達がいれば分かりそうだが、此処にいないって事はつまり有効範囲外にいるって事だろう。
マラッティーアは全く分からん。
あいつと最後まで一緒にいたのは誰だ?
……って雨だった。
こりゃ見付けるのに手間が掛かりそうだ。
「ん……。」
「お、クレア起きたか?」
「……爽君?……アリス、アリスは?」
「アリスは、あそこに置いてきた。見えるだろ。」
「……『ヴェストリーチェ』だ。」
俺とサエッタが走ってきた道を振り返る。
そこには、高さ不明、面積は約50キロ平方メートルくらいの水壁が聳え立っている。
「クレア、その『ヴェストリーチェ』ってのは一体何なんだ?アリスを助けるためにも教えてくれ。」
「……そうだね。泣いて、喚いたって、どうにかなる訳ないもんね。さっき、僕馬鹿な事したなぁ。」
「なに、人間生きてりゃ泣きたくなったり喚いたりしたくなる時もある。それは馬鹿な事なんかじゃねえよ。」
「……ありがと。爽君って意外と優しいんだね。」
女の子に優しくするのは男の務めだ。
「『ヴェストリーチェ』っていうのはね、お母さんの名前なんだ。」
「お母さんってアリスのか。」
「うん。と言っても、別に血が繋がってる訳じゃないんだけどね。と、その話の前にあの水について説明するね。あれはアリスの最終奥義『ヴェストリーチェ』で作られた水なんだ。」
それはさっき目の前で見たから知ってるんだが。
「アリスの体内の水の内約5%も使ってる。それだけアリスの力が強く籠もってるんだ。最初の五分間、その水は触った人の傷を完全に癒してくれる。爽君気付いてない?」
「気付いてないって、あ。」
言われてみれば、確かに傷が無くなってる。
さっきは無我夢中で走ってたから気付かなかったが、そういえば俺ふらふらになるくらい血を流していたな。
その原因になっていた傷が跡形もなく消えている。
「それが『ヴェストリーチェ』の最初の力。アリスに言うと絶対否定されるんだけど、あれって多分お母さんの優しさみたいな物だと思うんだ僕。」
「優しさ、か。確かに傷を癒すなんて優しさだよな。」
「うん。それで、その後が『ヴェストリーチェ』の真の力。全てを拒否する力だよ。」
全てを拒否……確かにあの水壁は人を近付けさせない、近付けさせたくないって感じがする。
「中に入っていたら、僕達あのまま死んでた。」
「凄え量の水だったからな。そりゃ溺死するのも仕方ない。」
「そうじゃないんだ。アリスが出したあの水は、全部壁を作るのに使われてる。だから中は普通に酸素があるし、溺れ死んだりはしないよ。」
「じゃあ何でだ?」
「壁を作る時、その水は地面を進んで行く訳だけど、それに触ると体中の水分が抜き取られて死ぬの。」
それは恐ろしい話だ。
そんな事されたら一瞬でお陀仏じゃねえか。
「水壁になった後に触ってもそんな事にはならないよ。でも、触ると触れた部位が無くなるんだ。」
「無くなるって、それも怖いな。」
「まあね。綺麗に切断されたみたいに無くなるの。当然血は出るよ。」
益々怖い。
「だから全てを拒否する力なのか。」
「うん。だけど、僕やサエッタ、それに爽君はあの中に入れるかもしれない。」
「……成る程。俺のアートは全てを切り裂く力。クレアはいまや創造を手に入れた。サエッタは……?」
「電気分解であの水も分解出来る、かもしれない。でもあんまりいい方法じゃないかな。」
電気分解するって事は、言わば分子レベルでの物質の分解を意味する。
つまり、それだけ体に掛かる負担が大きい。
普段から分子に干渉するクレアならまだしも、サエッタがそれをして無事で済むかどうかは分からないって訳だな。
「技の名前がアリスの母親の名前だってさっき言ってたが、それは聞いてもいい事なのか?」
「……此処まできたら、もう隠したりする必要はないかな。」
アリスはね、そもそも人間じゃない。
僕はリーダーに拾われてバンビーノに入ったんだけど、アリスが生まれたのは、アリスが人間として生まれたのは、バンビーノに入ってから一年後くらいだったかな。
それまでも人間の形はしてた。
でもアリスは、アートの水で満たされた水槽の中で管理されてたんだ。
何と無く察しがついたかもしれないけど、アリスはアートから生まれたんだ。
アートを人間の形にした、それがアックアーリョ•アリスレット。
そして、彼女を作ったのが元々そのアートを持っていたアックアーリョ•ヴェストリーチェ。
彼女はその力を使ってアリスを作った。
この人については僕もあまりよく知らないんだ。
知っているのは、水槽のガラス越しにアリスと仲良く話してた事くらい。
アリスにはちゃんと知能があった。
半分以上植え付けられた記憶と一緒に、知性を与えてもいたんだ。
アリスには、自分がアートから作られた人間だという認識はない。
でも、何故水槽の中にいるのかも分からない。
それを考えるという行為は、植え付けた中には入っていなかったから。
それでも、アリスは毎日楽しそうにしてたし、僕もアリスとはよくお喋りしてた。
……だけど、ある日突然アリスを作る計画が廃止になった。
廃止を決めたのはヴェストリーチェ。
彼女のアートはアリスと一緒で、自分の体内の水を失う事で使う事が出来る。
アリスを作る事でそれが補充出来るかを実験してたみたいなんだけど、アリスを作る過程で、それは出来ないって事が分かったの。
でもバンビーノ的には、ヴェストリーチェが水分を補給出来るかどうかなんてどうでもよかったみたいで、そっちより、寧ろアリスを重要視してた。
アートから生まれた人間なんて世界で今まで一人もいなかったから当然だよね。
それで、ヴェストリーチェがアリスを殺そうとした日がきた。
でもそこにバンビーノの殺し屋が3人、アリスを殺そうとするヴェストリーチェを止めるために派遣された。
その時に1人のバンビーノが誤ってヴェストリーチェに重傷を負わせた。
それを見てアリスは怒ってね、そこで初めてアート、『アクア』を発動させた。
そして、初めて使った技が『ヴェストリーチェ』。
当然あの時は名前なんて無かったけどね。
最初は多分、ヴェストリーチェの傷を癒すために水を出したんだと思う。
だからあの技は最初の内は触れた人の傷を癒してくれるんだ。
その後は、ヴェストリーチェを傷付けた相手に対しての攻撃、触れた相手の水分を吸収。
そして最後に、大切なお母さんを守るために水壁を作った。
これがアリスの生涯の始まり、かな。
「……アートから作られた人間。」
「信じられないかもしれないけどね。」
つまりアリスは、知性を持ったアート、か。
そんな事が出来るなんて信じられないが、自分のためにそんな事をする奴の頭も信じられん。
「その時はどうやってアリスを助けたんだ?」
「初めてだったせいかアートの制御が不安定でね、30分しない内に水壁は消えちゃったんだ。規模もそんなに大きくなかった。でも、中にいた人はアリスと2人残して皆死んじゃったけど。」
「皆って、ヴェストリーチェも殺したのかアリスは。」
「……お母さんとは言え最後は自分を殺そうとした人間だから。まあ、それと関係なく『ヴェストリーチェ』の水に触れれば死んじゃうんだけど。」
殺す気があったかどうかは分からんって事か。
「ちょっと待てよ、何で中で起きた事についてそこまで分かってるんだ?」
「僕とサエッタが当事者だからだね。」
「生き残った2人ってのは、お前とサエッタだったのか。」
「うん。だから『ヴェストリーチェ』がどんな物かよく知ってるんだよ。」
……だからクレアは、お母さんの優しさみたいだって言ったのか。
アリスは、最後がどうあれヴェストリーチェの事を愛していた。
ヴェストリーチェはどう思っていたか知らないが、それでもアリスに優しく接していた事もあったみたいだし。
そしてその優しさから、彼女をどうにかしようとしていた連中を拒絶する物に変わる。
それはヴェストリーチェだけでなく、アリスに対してもという意味だ。
だから、アリスはヴェストリーチェも殺してしまったんじゃないだろうか。
尤も、こんなのは他人の推測に過ぎないから、あいつがどう思っているのかなんて分からんが。
「とにかく、あの水壁についてはよく分かった。それでこれから何だが、取り敢えず雨とマラッティーアの無事を確認しよう。」
「……それなんだけどね爽君。」
「何だ?何か分かってる事でもあるのか?」
「さっきから二人を見つけようとしてるんだけど、ダメなんだ。」
「見つけようとって、どうやって?お前さっきからずっと此処にいるじゃないか。」
「センサーを創ったんだ。リーダーと雨ちゃんを探すことだけに特化したのをね。半径10km以内にいれば分かる様に創った。でも、反応がないんだよ。」
……半径10km以内にいない?
いや、いないに以内?
違う、落ち着け。
雨が、俺達の、半径、10km、以内に、いない、存在しない。
そんな馬鹿な。
あいつとマラッティーアが此処から離れる訳がない。
何故なら俺達が此処にいるからだ。
誰かのアートで別な所に飛ばされたが、そこは結局ジェニトーレの本部の中だった。
そこは雨の『読み取り機』の範囲内。
だったら、俺が全く別の場所に移ったんじゃない事は分かる筈。
だから、少なくとも雨はこの周辺を離れる訳がない。
……離れた訳じゃなく、離されたとしたら。
攫われたか、若しくは俺達みたいに敵のアートで何処かに飛ばされたか。
どちらにしても最悪だ。
「……今すぐ雨を探しに行く。アリスの事は後だ。あそこはジェニトーレの本部で、俺達が此処にいる事は多分奴らにばれている。だから、一旦此処を離れて雨達を探して、アリスを助けにまた来よう。」
「……そうだね。僕はサエッタを治すから、その間周りを見張っててくれる?」
「分かった。長話していてなんだが、なるべく急いでくれ。」
「うん。」
……アリスを置き去りにして、雨を見つける事すら出来なかった。
俺は、一体何をしているんだ……!