足音
ー春が、やってきた。
すべてが瑞々しく、風が甘く感じられる。
故国は、ランバルディアほど冬が厳しくないためか、これほどに春の訪れが眩しく感じられることも、心が弾むこともなかった。
眠気を誘う陽射しが踊る、穏やかな春の午後。
塔の下から、ニルダの楽しそうな声が聞こえてくる。
下を見ると、庭の手入れをする身重のビアンカを手伝うニルダは、その白に近い金色の頭に、色とりどりの花で編まれた花の冠を乗せてはしゃいでいた。
器用なビアンカに、編んでもらったのだろう。
格子の隙間から、私が見ている事に気付いたニルダが、弾けるような笑顔でこちらにぶんぶん手を振る。
…エリノアが見ていたら、またこってり絞られるところだ。
手を振りかえすと、ニルダはぴょんぴょん飛び上がって両手をちぎれそうにふり、落ち着いたビアンカは腰を落として挨拶を返してよこす。
共に町家の出のせいか、二人はいつの間にか姉妹のように仲がよくなっていた。
同い年だが、ニルダはしっかり者のビアンカを、姉のように慕っている。
ニルダがランバルディアに来て、はじめてできた友人。
ー全てが終わったら。
エリノアと一緒にアリオストに行かせるつもりだったが、エルベルト夫妻の元で暮らすというのも、あの子にとっては幸せかもしれない。
「テオ様?どうなさいました?」
もうすっかり春だな、と思って。
と、さりげなく窓に背を向ける。
だが、さすがは【地獄耳の侍女長】と呼ばれ、恐れられていたエリノアである。
「ニルダの賑やかな声は、よく響きますこと。」
ニルダ、不憫なり。
侍女長様のお説教が、そなたを待ち受けておる…。
「今、あの子はテオ様と私のために、花輪を作っているのです。
この私が、花輪なぞで喜ぶと思っているのでしょうか。
あの子の事です。きっと《花輪のような、そうでないような》ものをこしらえて、誇らしげに持ってきますわ。
喜んでやるために、気合いを入れておかなくてはなりませんよ、テオ様。」
ぶつぶつ言いながら、エリノアは手際よくお茶のテーブルを整えてゆく。
なんだかんだ言って、エリノアはニルダがかわいいのだ。
幼い頃、実の親の手で孤児院に入れられて以来、教育らしい教育を受ける機会を与えられなかった彼女が、どこへ出ても恥をかかないように。
優雅に、そして巧みに足を引っ張りあう宮廷の中で、弾き出されて居場所を無くさないように。
ニルダを思えばこその厳しさはきちんと伝わっているようで、泣くほど怒られてばかりいるのに、何かあるとすぐニルダはエリノアの所に飛んでゆく。
ビアンカが優しい姉なら、エリノアは母親がわりのちょっと(…いや、かなり)恐い上の姉、といったところか。
風が、馬のいななきを運んできた。
同じく、ざわめきに気づいて厳しい顔になったエリノアとともに、耳を澄ます。この部屋から塔の入口は見えないが、少なくとも4〜5人が到着したようだ。
物資補充の日ではないし、他に王宮から騎士達がくるような予定は、ない。
ーまさか。
もう終わりの時が、来たというのか。それとも…
階段を登ってくる足音は、おそらくルチアナのものだ。
いつもより、少しテンポの速い足音。
この足音が運んでくる報せが、考えうるものを越えた最悪なものであっても。
ー微笑んでいられるように。
そして何より、進むべき道を間違えないように。
目を閉じ深く息を吐いて、心を整える。
扉が、静かに開いた。