暗晦~1~(Side:アウトゥール)
宮殿にむけて走り出す馬車を、見送る。
あの馬車は、警護の為の特別な装備が施されている。付き添う従者達も、【黒狼】の中でも精鋭中の精鋭だ。
始めて一人であれに乗せられたフェリクスは、心細げにしていたが、安全には代えられない。
振り返ると、塔の入口に寄りかかってこちらを見ていたエルベルトが、親指で上を指す。
ー屋上へ行け、ということか。
うなずいて塔の中に入ると、何やら明日の打ち合わせをしていたエルベルトの妻と、王妃に付けている【黒の娘】の一人が、私に気づいて頭を下げる。
頭を上げさせて、エルベルトと話が終わったら何か簡単なものでよいから、食事をとれるよう準備しておいてくれと、頼む。
かしこまりました、とは言ったものの、二人の目は冷たい。
と、いうよりはっきりと怒りの色が、見える。
一体、なんだというのだ。
さめかけていた怒りが、また沸き上がってくる。
《王たるもの、怒りの熱を燃え上がらせるままにしては、ならない。》
階段を上りながら、王訓の一節を口ずさんで心を鎮める。
屋上の入口に、人影を見つけた。
【黒の娘】か。
…という事は、屋上にアレがいるということだ。
一瞬躊躇ったが、この娘の目にも堪えても隠しきれないらしい、怒りの色を認めて、こちらの胸にも炎が生まれる。
何を、躊躇う必要があるのか。
私に、非は無い。
屋上に、出る。かがり火の先、雪の上についた小さな足跡を辿ると、身を乗り出すようにして、下を見ている女の後ろ姿を、見つけた。
暗闇の中に溶け込んで、消えてしまいそうな小さな濃紺の背中に苛立ちがつのる。
「何を、している」
驚いて振り返った女の目と頬に、光るものが見えた。
近づいて、横に並ぶ。
このいつも憎らしい程に冷静な女は、一瞬の驚きから素早く立ち直ると、優雅に頭を下げつつ、さりげなく涙を拭っている。
王妃の見下ろしていた先は、サヴィルヌーブの森。
今、フェリクスを乗せた馬車の灯火が森の中へ消えてゆく。
ーここから、フェリクスを見送っていたのか。私に、階下まで行くのを止められたから。
この、母親気取りが。
心の中で呟いたつもりが、声に出ていたらしい。
今しも顔をあげようとしていた女の動きが止まり、やがて小さなため息がもれた。
上げかけた顔を伏せ、雪の上に膝をついて退去の礼をすると、さっさと塔の入口に向かおうとする女の腕を掴んで止める。
「お前の目的は、何だ。」
しばらくの沈黙の後、女は腕を掴んでいる私の手を、冷えきった冷たい手でそっと外した。
「今まで、幾度となく陛下のお心を苛立たせた事を、心からお詫び申し上げます。
…恐らくはもう二度と、フェリクスにも、陛下にも、お会いすることはないでしょう。
お心を苛立たせることも、少なくなることと、思います。
また、そうなるよう、努力致しますゆえ、ご容赦頂けないでしょうか。」
そう、背を向けたまま静かに言うと、また歩きだした。
「待て。
…他に言いたいことは、無いのか。」
何故もう一度、引き留めたか。
何故、答えになっていない、と咎めるかわりに、そう聞いたか。
自分でも、よくわからない。混乱した頭をさらに混乱させるような王妃の答えに、反応するのが遅れた。
「まだ、謝罪が足りませんか。」
返事が返ってこないことを、肯定と判断したらしく、振り返って膝をつこうとするのを、慌てて止める。
「お前にも、弁解したいことや、説明したいことがあるだろうと言っているのだ。」
女が見開いた灰色の目は、夜の闇のせいか、いつもより紫がかって見える。
しばらくして、答えた声は震えていた。
ーいいえ。何も。
そういうと、すぐに横を向いてしまう。
「ご自分の命を狙い、愛する息子に付け入ろうとする《魔女》の顔を見ているのは、さぞやご不快でしょう。
失礼致します。」
簡易な礼をして立ち去る女を、今度は止めることが出来なかった。
あまりに悲痛な表情を浮かべる横顔に、声が出なかったのだ。
女という生き物は皆、演技が巧みなものだ。
だが…
巡りはじめた考えは、見張り台の後ろから滲み出るように現れた気配に、中断を余儀なくされた。
「考え事をしているとこ、悪いな。」
「いや、問題ない。」
ーどうせ、この小さなかがり火では、深い暗闇の中にいるような混乱をほどくことなど、できはしない。