刹那
とにかく、冷えきった身体を暖めてやらねば。
まだ、涙をしまうのに苦労して、しゃくりあげるフェリクスを抱き上げて、部屋に戻る。
階段を登りきる頃には、流石に腕が悲鳴をあげはじめたとはいえ、まだ私が抱えてあげられる小さな子が、その小さな胸をどれだけ痛めているか。
それを思うと、叫び出したいほどの怒りと、申し訳なさと、悔しさが、込み上げてくる。
氷のように冷たい足を、香油入りの湯に入れてやり、汗で冷たくなってしまった服を脱がせ、私の夜着を着せる。
足と、顔と、温めたミルクを持つ手以外を、エリノアが毛布でぐるぐる巻きにしている。
エリノア。そんなにしたら暑いよ。
遠慮がちに抗議するフェリクスを、エリノアは手を止めずにじろりと睨んで黙らせる。
ぐるぐる巻きにした上から、さらに毛布をかけ、やっと気がすんだエリノアは、腰に手をあてて満足そうに、うなずいた。
ミルク粥を持って入ってきたニルダが、白い大きな塊と化しているフェリクスを見て、思わず吹き出す。
「まぁ。なんて大きなノルフォッサでしょう!」
確かにその姿は、さっきニルダが描いたノルフォッサ(と、思われる物体。ニルダは、恐ろしく絵心が無いのだ。)に似ていた。
「かわいい守り神さんだこと。」
そうとうお腹がすいていたらしく、握りしめた匙を一心不乱に口へ運び続けるフェリクスの姿に、私達の頬に笑みが浮かぶ。
ミルク粥が、すっかりフェリクスのお腹に消えたところで、事情を聞く。
朝の勉学の時間に、学友のクリストフを身代わりにして、宮殿を抜け出してきたらしい。 近衛はともかく、【黒狼】達に見つからず、よくも抜け出せたものだ。
それからずっと、歩き続けて
「もう、一歩も歩けない。母上に会えずに、ボクは死んじゃうんだ。
そう思った時に、ニルダに会ったの。
ニルダが天使様に見えたよ。」
本当に、私の宝物は無茶をする。
森で迷わなかったのは、奇跡に近い。
ーなにより、フェリクスがいなくなる事を望んでいる者達の手に落ちなかったのは、奇跡だ。
自分のしたことが、どんなに危険な事だったのか。
どれだけ多くの人に、心配と迷惑をかけたのか。
王家の子供であることに伴う責任。
ーフェリクスだって、わかっているのだ。
それでも、こんこんと諭す私の長い話を、フェリクスはくっつきそうになる瞼と必死に戦いながら、素直に聞いていた。
ごめんなさい。
ノルフォッサから、人間に戻ってフェリクスは、侍女達にも頭を下げる。
振り返ったフェリクスが何かを言おうとして、躊躇う。
そして、意を決したように口を開く。
「…あのね。かってに塔に来たのは、すごく悪いことだけど…。
だから、もうしないけど。
…かあさまは、
かあさまは、ぼくに会ってうれしかった?」
ー心臓を握り潰された気が、した。
やっと出せた声は、低く掠れてしまう。
「かあさまは、塔にきてから毎日、とても口惜しく悲しい思いをしているの。
なぜか、わかる?
毎日、少しずつ大きくなるあなたのそばにいられないからよ。
あなたをそばで守れないことが、どれだけ歯痒くて辛いことか、わかる?
そんなことは許されないとわかっていても、このままあなたを帰さず、塔で一緒に暮らせたらどんなに…。」
小さな手に頬を包まれて、自分が泣いていることに、気付いた。
ー嬉しすぎて、どうにかなってしまいそうよ。
よかった。
そう呟いた後。
フェリクスはそのまま、私の腕の中で眠ってしまった。
ー今、この瞬間に時がとまってしまえば、いいのに。