37話:心の内の清算
どうも、鳴月常夜です。
いつも読んでくださっている方々、お気に入り登録してくださっている方々、ありがとうございます。
皆さまの応援が作者の力になっています。
悪魔が人に憑く。
スイという悪魔が俺の近くに存在していることもあって、俺はどうも憑くという感覚が分からなかった。
スイによれば、『憑く』というのは能力の一種でスイ自身もできることなのだという。
しかし、その行動は対象者にとってかなりの負担となり最悪死に至るということらしい。
『憑く』という行動には二種類あって、対象者が了承した場合の『憑依』に値するものと、対象者に無断で取り憑いて操る、力を奪い取るといった『取り憑き』というものがあるのだそうだ。
今回の芹川の場合は後者の『取り憑き』の方で、たいへん危険な状態なのだという。
そもそも、『取り憑き』というのは普通の人間には実行できないらしい。
精神的に不安定な者、体力的に弱っている者に対してのみ有効で、例外はあるらしいがそのような範囲でしか行うことが出来ないのだそうだ。
ということは、今回芹川は精神的に不安定な状態で悪魔に目を付けられてしまったということになる。
「陽助様、芹川さんの位置が分かりました。歌音さんの居る場所、つまり囲い木公園です」
「ちょっと待て、いつの間にそんなに移動したんだよ! 空でも飛べんのか!?」
「そういうことで間違いはないでしょう。何しろ今の芹川さんは芹川さんであって芹川さんではないのですから」
「ごちゃごちゃになるからその言い方は止めろ。ってかどうするんだ、歌音が危険じゃないのか?」
「今の状態ですと両方が危険ですかね。なので必然的に止めなければならないのですが……」
「が、なんだよ」
「この国にはエクソシストという職業の方はいらっしゃいませんよね?」
「おいまさか、対策がないとか言うんじゃあないだろうな!?」
「対策はあります。ただ、時間稼ぎが必要となるでしょう。その際は」
ミユは走りながらもこちらを確認する。俺はその目をまっすぐに見返して頷いて見せた。
歌音も、芹川も救ってやらなければならない。介入してきた悪魔のせいで彼女たちの仲が壊れていいはずがない。その悪魔のせいで芹川が壊れてしまっていいはずがない。
悪魔という非日常的なモノが介入しているのであれば、俺達しか解決できない。
だからこそ、なんとかしてやりたいし、なんとかしないといけない。
「ま、陽助様が直々に何かをやるわけではないんですけどね」
「分かってたことを言うな!」
「ですが、普通は動かない私たちを引っ張り出して使うこと。それが陽助様の役目です。陽助様は対象となる問題を探す、それが役割なのです。ですからそんな顔をしないでください」
ミユが珍しく声を抑えてそんな事を言ってきた。
それがきっかけかは分からないが、俺の心の中に温かみが増した。
「では、空を飛ぶことにしましょう。不可視を張りますのでご安心を。私は触られたくないのでスイの腰にでもしがみついていてください、陽助様」
急に俺の心の中に冬が訪れた。
「うぅっ……。仕方、ないんだよね。 陽助さんは別にやましい気持ちで掴まるわけじゃないんだから……そう、大丈夫スイ。私なら無心で行ける……はず」
スイは下を向きながら呪文のようにぶつぶつと呟いている。その全てが俺に聞こえてきて、すごく申し訳ない気持ちになった。
ふと、スイの細い腰に目がいく。
典型的な幼児体型。山も谷も存在しない触れてはいけないようなその身体に俺は何故か罪悪感が浮かぶ。
細い腰は少し心配になるレベルで、ちゃんとご飯を食べているはずなのにほっそりとしている。
「ひぃぃっ、こちらを凝視してますぅ! やっぱり怖いぃぃぃ」
一瞬のうちに涙目になって抗議をするスイ。やはりこいつに運んでもらうのは無理がある気がする。
「な、なぁやっぱりお前らだけ先に行って────────」
「それじゃあ誰が囮になるんですか。作戦はもう立てられていますので、余計なことはしないで下さい」
九割九分反応を見て楽しんでいるミユのその目はもうキラッキラと輝いているように見えた。
心なしか少し口角も上がっている気がする。いや、気のせいか。
「……仕方ありませんね」
そう言うとミユは俺の脇の下に手を差し込んで、ひょいっと持ち上げた。そのまま翼を広げて上昇する。
どんどん高度は上がっていき、見なれた町が小さくなっていく。
「超速度で向かいます。落ちたら回収はしませんので動かないでください」
「はい」
俺は短くそう答えるしかなかった。
それはミユが少し怒っているような気がしたからだった。
例の囲い木公園に降り立った俺達に聞こえてきたのは、芹川の蚊の鳴くような小さな声だった。
少し離れた位置に降りたために、話しの内容は全く聞き取れない。
急いで歌音のもとに駆け付けると、バツの悪そうな顔をしながら芹川は俺達から顔を背けた。
「あっ……朝浦君」
「歌音、えっと……」
俺がどう話しを切り出そうかと迷っていると、歌音が震えた声で、あってはならないことを言った。
「結穂ちゃんが、空から、……降りてきた」
超常現象を目の当たりにした歌音が驚くのは仕方のないことだった。しかし、今はそんな感想を抱いている場合ではなかった。
芹川に悪魔が付いているのだ。それを何とかしない限りはこの場は収拾が付かない。
俺は先ほどここに来るまでの間に練られていたミユとスイの作戦を遂行するべく、歌音に言葉を残した。
「あのな、歌音。これは夢だ、悪い夢なんだ。だから心にも記憶にも留めておく必要はない。いいな、分かったか?」
「う……ん?」
適当なことを言って歌音から離れると、俺は芹川に向かっていった。
いつもより数段に潤いの足りない肌。完全にやつれきっていて、彼女は疲弊していた。
しかし、それと反比例して彼女の中の悪魔は活力を取り戻しているのであろう。
俺は慎重に言葉を選んで芹川に話しかける。
「どうした、そんなに睨むような目で」
挑むような目つき、光の灯っていない彼女の目を見て俺は少し寒気がした。
「芹川、」
「どいて。 私は、美里に用がある」
「芹川」
「どいてって……言ってるの」
「何をそんなにイライラしているんだ」
『だから、っ……ほんとに。 あぁぁぁっ、むかつく、殺したい……嫌いだ、嫌いだ! 朝浦陽助! あなたが嫌いだ!殺したいくらいに、壊したいくらいに、嫌いだ! その顔も体型も心も声も嫌いなの!』
芹川の口から、芹川の声で並べたてられる言葉に屈しそうになる。
俺は人から陰口を叩かれることには慣れているが、正面切って嫌いだといわれるのは正直堪える。
いや、おそらく誰もがそうなのだろうが、それでも俺は何を言われても心に全く響かないであろうと思っていた。だけどそんなものは嘘だった。
人から嫌いだといわれて心に響かない者などいない。
『そうだった……私は嫌いだったんだ。朝浦陽助のことが、歌音美里のことが。ううん、人が嫌いだったんだ。違うな、人の気持ちを分かろうとしない人が嫌いだったんだ』
「結穂、ちゃん」
後ろから歌音の声がする。おそらくは泣いている、振り向かなくてもそれは分かった。
横目でミユを見やると、目を瞑って精神を集中させているようだった。準備にはそれなりに時間がかかると言っていたが……。
芹川の方を見る。肩で息をし、今まで言葉に呪情を込めて発していたかのような疲れ方だった。
『あああああぁぁっ! ほんとに、その、目が嫌いなの! 美里!』
「ひっ……」
『昔から周りで賑やかに振舞って、余計なおせっかいを焼いて、あんたは何様のつもりなんだよ! 私が頼んだの!? いいや、頼んでないね! 勝手に人の気持ちを分かった気になって、私の役に立っているとでも思ったの? 残念だったわね、そんな事は一度も無かったわ。それでもあなたは満足したように笑ってた! 気味が悪い……。………そうよね?あなたはいいことをしている自分に酔っていただけよね。私はいい子です、ってね』
吐き捨てるような口調。いつもの真面目だけど少しテンパり癖のある芹川は完全に死んでいた。
歌音は目を見開いて、今の言葉を頭の中で必死に処理していた。
小さな悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。そんな歌音はもう見ていられなかった。
「ミユ! まだなのか!」
「…………静かに、していてください」
珍しく切羽詰まったかのような声で返答してきた所をみると、時間はまだかかりそうだった。
歌音にこれ以上被害が及ばないよう、もう少し芹川に近づいて俺は話しかけようと試みる。
「芹川、……お前本気でそんな事を思っているのか」
『ふん、当たり前でしょう。嫌いなの、もちろんあなたもね。 それにしても、本当に良いものね、嫌いな人がああやって自分の言葉で壊れそうになっていくのを眺めるのは』
意地の悪そうな笑みを浮かべて歌音を指す。
これは芹川の本心じゃない。そう思うが、もしかしたらと思う自分もいる。
それにしても、俺の予想が当たってしまっていた。人を傷つけることにこの芹川は快感を覚えてしまっている。
それでは歌音の心が折れてしまうのは仕方がなかった。こんなにも酷いことを言われて。縋るように彼女を見つめてもその顔はこちらを見て醜く笑っているのだから。
「ぃ、いやだ……結穂ちゃん。そんな、嫌だ……」
じりり、と歌音が後退りしているのが分かる。
それを気にしないようにしながら俺は芹川の注意を俺に向かせるよう声を発する。
「おい芹川。お前は俺のことも嫌いだと言ったな」
「嫌い……じゃ、ない」
「え?」
『嫌い……じゃ、ない……わけ、ないでしょ! 嫌いに決まっているわ。 その刺すような目付き、まるで悪魔みたいね、本当にうっとおしい」
「そうか、うっとおしいか」
『なんで、……なんでそんなに平然としていられるのよ! 気味が悪いのよ! そう、今のことだってそうよ、なんであなたが出てきて美里との間に割って入っているの? もしかして仲直りでもさせようとしていたのかしら。あなたも余計なおせっかいを焼く人種なのかしら、だとしたら嫌いな理由が増えるわね』
芹川の暴言の間。俺は自分に言い聞かせる。
これは芹川の言葉ではない、と。
そうでもしないと、人付き合いの浅い俺は嘘だと分かっていても簡単に負けてしまいそうだから。
何よりも、彼女の表情だ。
本当に嫌いなものを見る目、表情が完璧に張り付いている。
まるで本当に、実際に非現実の存在しない現実で言われているような気がしてしまうのだ。
だから俺は視界にミユやスイを収めつつ、心を保つ。
『本当に、折れない人ね。何がそうさせるのかしら』
飽きた玩具を放りだすかのように俺への視線が弱まる。
彼女はやはり歌音を壊したいと考えているのだ。
俺はついに待ちきれなくなって、作戦のその1を遂行させることにした。
「おいお前、本当に芹川なのか?」
『はっ、何言ってんの? 頭でもイカレタのかしら。私は芹川結穂よ?』
「そうか? 見た目は芹川だけど……中身はどうなんだ?」
『何を、言っているの?』
食いついてきた。
あいつの中での優先順位が歌音を壊すことから俺に変わったのが分かった。
「…………」
『なんとか言いなさいよ』
「悪魔。なんだろ? お前」
『なっ……。ははっ、なるほどね。知ってたわけだ。そうか』
くっくっく、と顔を手で覆いながら笑って見せるそいつは明らかに先ほどの俺達を弄ぶ雰囲気ではなくなっていた。
『でもさぁ、私は嘘は言ってないよ。 言っているのは全て本当のことだけ、私の心の内をぶちまけてるだけなんだからァ!』
急に。急に殺気が増幅した。
目には見え無いが、芹川の身体を中心に得体のしれないオーラのような物をヒシヒシと感じる。
そんな中で、声を発した人物がいた。
「結穂、ちゃん。あのね」
「歌音っ……。何を」
俺の言葉を遮って、この殺気の中声を発する。
「私は、結穂ちゃんの事好きだよ? 確かに私、何も考えずに行動しちゃったり、うるさくして迷惑かけちゃったりしているかもしれないけど……ううん。多分そう、私は自己満足で動いてる時もあった」
『へーぇ。認めちゃうんだ、だから?』
「だからね、私に嫌なところがあるように、結穂ちゃんにもあるんだよ」
『は、ぁ?』
「結穂ちゃんは慎重すぎるんだよ。何をするにしてもしっかりと計画を練って、それから行動を起こしたりっていちいち回りくどいことしたり、いきなり消極的になったりするところもあった。それなのに少し見栄っ張りで、困ったことがあっても頼ってくれない」
俺も、芹川も唖然とするしかなかった。歌音が、反撃をしているのだ。
「そんな結穂ちゃんのことはね、少し好きになれないの。でもね、そんなところがあるからこそね私は結穂ちゃんに惹かれたの。好きになれたの」
目にたまった涙を拭ってさらに歌音は続ける。
「欠点もあって良いところもあって、そんな結穂ちゃんが好きだったの。私は好きだったの。結穂ちゃんも、そうじゃないのかな?」
『何を……』
「私のこと、嫌いかな」
『嫌いに、決まっているでしょ!』
「でも、それって嘘だよ。嫌いな人のことなんて、普通の人は忘れちゃいたいと思うよ。結穂ちゃんは私の嫌いな所をいくつも挙げてくれた。それって、私の事を良く見てるってことだよね。それだけ近くに居たってことだよね。それほど長い時間に一緒にいたってことだよね」
『うるさい、黙れ黙れ黙れ黙れ! 私はあんたが嫌いなの、大嫌いなの! そう言ってるでしょう!』
「違うよ。好きの反対は無関心だってお母さんは言ってた。嫌いっていうのは、好きを大きくするためのスパイスなんだって、言ってた」
『何、何なの……この、感じ! ふざけたこと言ってないでよ!』
ブワァッ、と芹川の身体の周囲に黒い霧のような物が出現した。それが形作って醜く歪んだ顔を成形し、残った霧は芹川に纏わりつき、羽を作った。
「なに、あれ……」
いつの間にか俺の隣に並んでいた歌音が先ほどまでの表情を一変させて、不安をあらわにしていた。
そんなの、俺だってそうだった。
『もういい、私がどれだけあなたが嫌いなのかってことを分からせるために、傷ついてもらうわ』
黒い霧は次に固まって鋭く尖った爪を作り出し、芹川に纏わせた。
一歩、また一歩と彼女は迫ってくる。
俺と歌音は動けなかった。あまりの出来事に圧倒されたのもそうだが、何よりも殺気の量が尋常じゃ無くなっている。
本当に人は恐怖の中に居ると身体が動かなくなるというのが分かった。
筋肉が硬直して動かないのだ。脳からの命令を受け付けてくれないのだ。
『嫌い』
爪が振りかぶられる。芹川の目は歌音を向いていて、俺の身体は動かない。
あんな重機レベルの爪が振り下ろされたら人間なんてひとたまりもなく潰されてしまう。
なのに、動けない。
遠くで叫ぶ声が聞こえる。おそらくはスイ、しかしこのままでは絶対に間に合わない。
スイ達の陣取っている位置は俺達とは離れ過ぎている。いくら気付かれないためだとは言っても離れ過ぎた。間違いなく作戦は失敗。代償はおそらく歌音の命と、俺の─────────。
「嫌だ……、こんなの。嫌だ」
爪は一向に振ってこない。その代わり、芹川の声が聞こえる。
「私は、美里が嫌いなわけじゃない……。ただ、羨ましくて。それだけで……」
見れば芹川は泣いていた。先ほどまでの邪悪な笑みは顔から剥がれ、いつもの芹川がそこに居る。
「結穂、ちゃん」
かすれた声で歌音も名を呼ぶ。が、しかし。
「あ、あ、あああああああああっ。駄目っ! 私、嫌っこんな!」
フッ、と芹川の表情が消え、再び粘りつくような笑みが戻る。
『嘘だ。嫌いなはずだ、嫌いだ、そう。嫌いじゃないといけない』
散解しそうになっていた爪が再び構成される。
だが、またも爪は振り下ろされない。
「嫌だって、言ってるのにっ……」
まさか、芹川は悪魔に対抗しているのか。
そうとしか考えられない。間違いなく今、芹川は自分の中の悪魔と戦っている。
「美里は、私の友達だ! 本当の意味で嫌いになんてなれない……。こんな私と、一緒になって騒いでくれる美里は、私の大事な、友達なのにぃっ!」
芹川が叫んだ瞬間、スイの声が飛んだ。
「準備完了! 陽助さん、下がって!」
俺は咄嗟に歌音の腕を引いて下がった。そうすると、瞬時に芹川は半透明な立方体に閉じ込められる。
素早くミユが俺達に近づいてきて、俺と歌音の手をとって強引にその立方体から引き離す。
「ミユちゃん……?」
「話は後で、今は下がってください」
ミユに手を引かれながらも立方体に目をやると、芹川が叫び声を上げていた。
それと同時に影のような物が芹川の身体から剥がれていく。
あの影が、悪魔なのか?
俺のそんな問いに答えるかのようにミユは口を開いた。
「あの影のような物が芹川さんに取り憑いていた悪魔です、今私の結界の中で切り放しています」
だんだんと影が形作られて人に似た造形にとどまる。
芹川は倒れ、結界の中でその悪魔だけが右往左往している。
「スイ、今です」
「了解だよ!」
返事を返したスイは左腕に芹川に憑いていた悪魔同様に霧のような物を纏わせて刃を形作り。
ジャングルジムのてっぺんから飛び降りて、ミユの結界ごとその悪魔を切り刻んだ。
『があああああぁぁぁぁぁぁっ!』
その身の毛もよだつような叫び声が聞こえなくなった時、悪魔はもう姿を消していた。
私には、兄がいた。
5つも歳が離れていて、私が小学校に入る頃にはすでに五年生だった兄は日々を退屈そうに送っていた。
歳に見合った子供らしくない子供だった。
その時に私がそう感じていたのだから、お父さんもお母さんもそう感じていたと思う。
中学生になり、思春期を迎えるはずの兄には反抗期が無かった。ただ魂が抜け落ちたかのように態度はそっけなくて、両親に汚い言葉を浴びせることも、暴力を振るうことも無かった。
それが高校に入ってから兄は変わってしまった。
受験が失敗したわけではなかった。私の通う滝原高校ではなく、少し離れた別の高校に電車で通っていたが別段そこがどちらの意味でも有名な高校ではなかった。普通の高校だった。
おそらく、その高校で知り合った仲間がいけなかったのだと私は思った。
夜に遊びに出ることが多くなったり、成績不良に陥ったり、煙草を吸うようにもなっていた。
警察の世話にだって何度もなった。
兄はおかしくなってしまったのだ。
あの何事にも興味の無さそうだった兄が興味に持ってしまったものが悪いものだったのだ。今まで欠落していた分の集中がそこに行きつき、さらには無かったと思われていた反抗期が遅れてやってきた。
壊れていく兄を見て、私が最初に抱いた感情は嫌悪だった。
人に迷惑をかけて、それでいて平然としていられる兄が兎にも角にも嫌いだった。
本当に兄が嫌いになった元の原因は他にあった。
それは私が中学生になった時、担任に言われた一言が決定打となったのだ。
『あぁ、あの有名な芹川の妹か』
いつの間にか有名になっていた兄のせいで、その妹と言うだけで私を見る目を変える人たちがたくさんいた。
教職員、生徒、近所の人々。
私を一切見ずに、兄を見て私を評価していた。
で、あれば。ここで存在している私は何になるのか。私のこの感情や性格は誰にも認識されない場合は嘘のモノとなってしまうのか。
人の心が分からない人が、嫌いだった。
だから私は不良と呼ばれる存在が嫌いだった。
兄が、嫌いだった。
それから私は兄を憎み、そして人々の目に対抗するために真面目であろうとした。
クラス委員長、委員会、生徒会役員、大抵のことは引き受けることにした。
学力も常に上を目指した。
それで教職員の目は私という個を見てくれるようにはなったが、生徒達はそうはいかなかった。
『なんだよアイツ、有名な芹川の妹のくせに優等生かよ』
『本当は仮面被ってんじゃねぇ?』
言いたい放題だった。その時期の心の在り方を考えれば仕方のないことだとは分かっていた。
それでも私はそういう物の見方が許せなかった。
だからと言って手をあげれば兄と同じになってしまう。そんな愚行は起こさなかった。
結局、兄を憎む。
そんなことの繰り返しで中学時代を過ごしていた。
兄が高校を卒業し、適当なところで就職して私は中学二年生になったころ。事件は起きた。
兄が捕まった。
理由は薬物を服用・所持していたからだった。
あり得ない。と私は思った。
まさか、自分の身内が犯罪に手を染めていたなんてことは、あり得ないと思った。
思ったが、現実だった。
そこまで兄は壊れていたのだと私は分かっていなかったのだ。
そして急に、兄が恐怖の対象になってしまったのだ。
こんな狂った人間が、そばに居たことに恐怖を覚えたのだった。
目を開けると、そこには見知った顔があった。
その目には涙が溜まっていて、いつも以上に幼く見えた。そんなところも彼女のチャームポイントだと私は知っていた。
「……美里」
「結穂ちゃん、……お帰り」
「ただいま、私の大事な友達の、美里」
「うん……。私の大事な友達の、結穂ちゃん」
芹川結穂の今の言葉には偽りはなかった。歌音美里の言葉も同様に、そうだった。