12話:残像視界
何事もなく次の日を迎えられた。
昨日のミユが言っていたように、そんなに心配することもなかったのかもしれない。
カーテンの隙間から刺す朝日によって半強制的に目を覚まされる。ふと気がつくと、いつものミユの暴力&毒舌の目覚まし時計が作動していなかった。
時間は6時半、いつもならこの時間帯まで寝ていると鳩尾に肘を入れられるのだが……それが無い。
何か物足りないような感覚を頭から追い出し、リビングに向かう。
そこには誰もいなかった。
寝ぼけ眼を擦ってみても視界が一転することはない、誰もいないのだ。
ミユも、スイも。いつもは流れているはずニュースも入っていない。テレビの電源がついていないからだ。ミユは人間界のことを知ることが出来るとニュースは毎日欠かさず見ている。スイは占いのコーナーを朝の楽しみにしていていつもテレビの前に陣取っているはずなのに、居ない。
「おい、……嘘だろ?」
慌ててミユとスイの部屋の前まで行く。ドアを叩く。
「寝てんのか、おい。 朝だぞ! ………いないのか? 本当に居ないのか?」
ドアノブに手を触れる。開けて本当に居なかったら、そう思うと不安で仕方がない。
昨日出会った不審な男の台詞から読み取れる意味。スイが言った、私を狙っているという言葉。
もし、このドアを開けるとミユとスイがいて、実は俺はまたミユに騙されていて。
意地悪くミユが毒を吐いてくれるならそれはそれでいい。スイが涙目になりながら俺を変態と呼ぶのならそれでもいい。
この嫌な予感を早く振り払いたかった。
勢いよくドアを開けると、そこには綺麗に折りたたまれた布団。それと、ミユが立ちつくしていた。
不安の中に安堵が甦るが、それも束の間だった。何か様子がおかしい。
羽根が、黒い色をした羽根が部屋に散乱している。的確に場所を言うと、寝る際にスイの布団が敷かれているその場所を中心として円を描いて、だ。
「ミユ。何だ、居たのか……。スイは?」
何かごちゃごちゃした気持ちを押えこむようにしてようやく声を出せた。
必要最小限のことしか話せない。これ以上声を出そうとすると、叫び声が溢れそうだったから。
「やられました……。おそらく、昨日の夜でしょう……空間転移によってスイが連れ去られました。この羽根は抵抗した際に抜け落ちたものだと」
ミユは普段より少し低いトーンでそう言った。
いや、実際はいつもと声は変わっていないのかもしれないが、俺にはそう聞こえた。
「連れ去られた……? もしかして昨日帰り道の男に!?」
「……ええ。 しかし場所は割れています。 先ほど感知しました、今から私はそこへ行ってきます」
そう言ってミユは神秘的に光る二枚の羽を広げた。白い天使の羽である。
見るのは二度目だが、明らかに最初に見た時より輝いているように見える。
「待ってくれ、俺も行く」
恐怖心を押えてそう言う。
「何を言っているんですか」
そこにミユの冷たい言葉が返ってくる。
「人間が悪魔に対して何が出来るのですか、昨日もそうだったでしょう。ここは私が行きますから陽助様は普段通り学校へ行ってください」
そんな言葉に、俺は恐怖を忘れて少しの怒りをおぼえた。
「何言ってんだよ! そんな俺だけが無関係って顔して普段通り過ごしてられっかよ!」
「そうじゃないんです。何も出来ないからついてくるな、と言っているんです。それに、これも修行の一環と考えれば大したことはありません」
そう言ってミユは窓のさんに足をかける。
どうしても俺を連れていく気は無いらしい。しかし、俺は納得できなかった。
理解はできる。俺はただの人間だから、悪魔に対して何もできることはないと。
納得はできない。ただの人間だから、この問題は気にせずに普段通りでいろと。
神様から直々に言い渡されたこの『二人をあずかれ』という命令。
その意味はどこまで解釈できて、広がっていくかは分からない。
だけども、俺はその意味を出来るだけ拡大解釈していきたい。
言うなれば、プライド。
一般人が何を、とそう言われるかもしれない。でも、俺は。
神からの命令のそれを、『二人を見守ってくれ』と、そう捉えたい。
おこがましいかもしれないが、俺はそう思った。
ミユやスイは、普段はただの女の子なんだ。学校に通って、勉強して、友達といて、笑って、そうして暮らしている人間と変わらない表情を見せる女の子たちなんだ。
それを男の俺が放っておけるのだろうか。
天使とか悪魔とか人間とかは関係が無い。全てをひっくるめて、俺は言う。
「待て、ミユ。確かに俺は何も出来ないけどさ、見守るってことはできるだろ」
ミユがこちらを振り返る。
何を言いたいのですか? とそう問うように。
「神から直々に受け取った命令だぜ? 破れないだろ、そんなもん。破ったら天罰が下るんじゃないのか。 そんなの俺は嫌だね。だから、俺の身のためを思って言う。連れて行け」
それから少しの沈黙が訪れる。
ミユは考えているようだった。こうしているうちにもスイに危険が迫っているのかもしれないのだが、ミユは考えてくれている。結局、ここでも弱さというものは露呈されてきている。
しかし、退くわけにはいかなかった。
やがてミユはふぅっ、と小さく息を吐いて肩をすくめて見せた。
「ウジ虫のくせに何をそんなに格好つけているのやら、恥ずかしすぎてこちらが真っ赤になりそうです」
「なっ、お前っ……!」
「分かりました、一緒に行きましょう。だだし、絶対に邪魔になるので後ろの方にいてください。前に出てきたら私が蹴り飛ばします」
「お、おうっ!」
毒舌も気にならないまま、俺はそう返事をしていた。
「やはり、君はすごいよ。もったいない。どうしてそんなところにいるんだい? 地獄に戻る気はないのか?」
昨日と違い、サングラスを付けていないコートの男は、スイに向かってそう言い放った。
存在から感じられる力の量はすさまじく、スイでは敵わないことは明白だった。
それなのに男はすばらしいという。スイにその意味は正確に伝わっていた。だからこそ彼女は拒む。
「い、嫌だねっ。 お前なんか知るか!」
「はっはっは……、どうしてそう強情になるのかな。ティシフォネ」
「その名前で呼ぶなっ!」
ブアァッ、とスイの手から出現した黒い粒子が男に向かって飛ぶ。それを男は片手で粉砕する。
圧倒的力の差。しかし、男はスイを傷つけることはしない。
「もっと見せてくれないか。 君だって解放したいはずだ、久々に楽になるのもいいかもしれないぞ?」
「そんなこと……」
「ない、と言い切れるのか? 本当に? 」
「………」
「ほら、素直になるといい。 俺はここで黙って見ているから」
暗いこの場所では人気も少ない。ただ、それだけではスイの心配事は拭えない。
なんとしてでもここからは逃げ出さなければならない。
辺りを見回すが、逃げられるとしたら空。天井に大きな穴が空いていてそこからしか出入りできないようになっている。周りの様子から察するに、ここはどこかの廃虚だろう。
空間転移によってどのくらい飛ばされたのかはわからない。ただ、そんなに遠くまで運ぶほど男は力を使っていないようにも見える。
「う、う、だめ。駄目だよぅ……」
男は黙ってスイを見つめるだけだった。
何も気をそらせるようなものはない。攻撃も男には通じない。
どうすれば、とそう考えていた時、周りを囲んでいた壁の一部が吹き飛び光が差し込んだ。
そこにはミユと陽助の姿があった。
「えぇ………ミユ、お前……」
「何か問題がありましたでしょうか? 」
そんな軽い言葉を交わし合いながら、この廃虚内に入ってくる。
しかし、男はそれを許さなかった。
「思っていたより早かったね。ただ、ここには入ってこないでほしい」
黒い球体を生み出し、それをミユと陽助に向かって放出する。
暗黒の電流をまとったそれは、地面に着弾すると、四散して大きな爆発を起こした。
「ミユちゃん! 陽助さんっ!」
煙で何も見えなくなる中、男の声だけが聞こえれてくる。
「姿形も無くなるくらいに粉々になったな。 あの天使も人間がいては相殺することは出来ないだろう。さて、スイ=ティシフォネ。これで君はどう感じるかな」
消された、ミユと陽助が。
死んでしまった。新しく出来た温かい家族が、日常が。
煙が晴れてその姿が鮮明に映る。そこには大きな縦穴と天使の羽根が数枚落ちていた。
それを目の当たりにしたスイの中で何かが切れたような音がした。
回線が切り替わる音、ブレーカーが全て落ちて、視界が暗くなる。
もう何も考えることはできない。
もう何も感じることが出来ない。
もう、壊すことしかできない。
男はスイが切り替わったのがしっかりと分かった。
感じられる力の量が先ほどのちっぽけなものに比べて爆発的に増大したのが分かった。
知らず知らずのうちに笑いが漏れ、汗を流していた。
要するに男は興奮していた。このすばらしく大きな力に対して。
それが自分のものになると考えただけで震えが止まらない。恐怖の震えではなく幸福の震え。
馬鹿になりそうなほどの力、このイカレた感じがたまらなかった。
「ふはははっははは! 何てことだ、こんなにも予想を上回るとは!」
男は熱でも出たかのように身体が熱くなっていくのを感じていた。
「強大だ、最強だ、最悪だ! 何とも言い難いこの力、これさえあれば天界なんぞ捻り潰せる。そんなことよりも私が神になることも可能だ!」
それにしても先ほどからスイは動こうとしない。
少し不思議に思い、じっと目を凝らして見てみる。
ブレていた。スイの実像がブレて見えていた。おそらく、力の大きさが男の視界にも作用しているのだろう。
それにしても汗が止まらない、と男は首の辺りや額を拭う。
額の汗を拭った瞬間、おかしいほどの汗が顔を覆った。
「何だ、俺はこんなにも……?」
違う。
何か違和感を感じた。
額を拭った瞬間に、汗の量が以上に増えた。これは何を指しているか。
汗を拭った手を見てみる。
無い。
手首から上が紛失していた。
「なん、だ、これはぁぁぁぁぁぁっ!」
先ほどから出ていたのは汗ではなかった。血だ。血があふれていたのだ。
反対の手で首元を触る。
一部分が抉りとられていた。
「はっ、ははははっ」
熱は痛み。汗は血。
力の大きさに驚嘆しているうちにとんでもないことが自分の身に起こっていた。
だとすると、先ほど見えたブレるスイの姿は、残像。
「俺は、何てモノを……。こんなものはっ……」
次の瞬間には左腕が無くなっていた。
「ははっ、ははははははっ! 流石、流石だよスイ=ティシフォネ! 君は素晴らしい! ぜひ地獄に招待しよう、私たちの仲間が待っている、さぁ!」
後ろに狂気を感じた。
それは最早一個体から発生させられるはずのない異様な、異質な存在だった。
男は声を出すことが出来ない。
「カ、エッ………セッ」
呪いを紡いで発したような声で言葉は飛ぶ。
最後に男の瞳に映ったのは血まみれになった少女。
まぎれもなくそれは悪魔だった。