せみのぬけがら
自分の男が他の女と寝ている部屋に入って行ってしまう、なんて最悪な事態はオハナシの中だけかと思ってた。
まさかね、自分が遭遇するなんて想像もしないじゃない。
同棲中の部屋に女を引っ張り込んだ間抜け(つまり彼氏のことなんだけど)と、その相手の驚いた顔はスローモーション。
私は、びっくりするほど落ち着いていた。
落ち着いてたんじゃない、事態が呑み込めなかったんだ。
逆上してキレたのは、彼の方だった。
「何でこんな時間に帰ってくんだよっ!帰るって連絡もなしに帰ってくんじゃねえよっ!」
相手の女がその間何してたかよくわからない。
気がついたら、服を着終えた彼女がそそくさと私の横を通り抜けていった。
帰ってくんじゃねえ、とか言われても、家賃の半分は私が出してるんだし。
ウワキシテタンダ、ワタシノベッドデ ホカノオンナト。
全然実感のない上滑りな感情。悲しさも悔しさもない。
無表情な私にどう対処して良いのかわからずに、ワケのわかんないイイワケと逆ギレを続ける彼。
ねえ、ちょっと耳元で叫ばないで、落ち着いて考えさせて。
私の頭は混乱しすぎて、却って冷静になってゆく。
「別れるつもりなんかないんだ。あんなの遊びのうちなんだから」
呆然とした頭を呼び戻したのは、そんな言葉だった。
アソビデ ワタシノベッドニ ホカノオンナト イラレルンダ。
それは、行為そのものよりも酷い裏切りでしょう。
サンダルをひっかけて、外に出た。
追ってこようとする彼に「来ないで!」と背中を向けた。
「帰ってくるんだろうな?」
私が家賃出してる部屋に、帰らないわけないじゃない。
ただ、あのベッドは二度と使いたくないし、きっと彼とは二度と寝ない。
どんなに謝ったって、どんなに時間が経ったって、見てしまった事実と聞いてしまった言葉は消えない。
ああ、びっくりした。
家に帰ったのは午後の日が高い時間だったのに、もう夜が更けているじゃないの。
街路樹に蝉の幼虫が這いあがってゆく。
ガードレールに腰掛けて、それをずっと見ていた。
昼からの連続した出来事が、断片ごとに頭に繰り広げられる。
背中が割れて、白い蝉がちょっとずつ現れてくる。
生まれたばかりの薄い緑の透明な蝉。
綺麗だな、そう思った時に涙がこぼれた。
帰ってくるんだろうな、彼の言葉を頭の中で繰り返す。
帰りますとも、引っ越しの荷物をまとめるために。
怒りや憎しみよりも先に抱いたのは、彼への絶望だった。
これを持ったままで、彼の顔を見続けることはできない。
蝉が残した抜け殻は、まだ乾燥せずにそこにあった。
そっと手にとって眺めた後に、くしゃりと潰した。
彼との生活の始まりから今までが、手の中で小さくなった。
fin.