春陽気
「織り、今日は天気もよいし、家のことは茜に頼んでちょっと俺と出かけないか」
俺の仕事が非番の日。
天気は朝から快晴。朝からメダカと日向ぼっこをしたのだがなんとも心地よく、何度うとうとしてしまったことか。
先日水村殿を訪ねた際、土産にと道場の庭に咲く桃の花を分けてもらった。なんとも風流なことに、その枝には文が結び付けてあった。言わずもがな、茜への文である。
水村殿は体育会系かと思っておったのだが、歌の教養もあると見受ける。ふむ…。歌ならば、俺も幼少のころに少し学んだ。今度は歌で手合わせ願うとしよう。
それを茜に手渡すと、てっきり頬を染め恥じらう姿を見せるかと思ったのだが、無表情に結んである文を解くと、そのまま懐に収めてしまった。そして、いつもの事務的な笑顔を顔面に張り付けて「ありがとうございます」というと、そのまま床の間の花にしようと裏に回ってしまったのだ。
実につまらん。
何だというのだ。
あの時のあれは、幻だったのであろうか。
いつもと変わらぬ、忠義者の姿に、もちろん妻は二人のことなど気づいてはいない。
気づいていないから、今も茜と昼餉の片づけなどを呑気にしているのだ。
そして、俺の言葉に面食らったように目を丸くする。
「なんだ…都合が悪いのか?」
思わず聞き返すと、妻はブンブン頭が飛んでいくのではないかというくらい首を振る。どうやら喜んでくれているらしい。妻は頬を染め、どんぐり眼を潤ませながら俺を見返している。
ふむ…。
妻はやはりこのような反応か…。先日の茜のように幸せに満ち満ちた表情を俺に向けてはくれないのだなぁ…。まだまだ、あの時の茜ほどの幸せを感じてはおらんということなのだろう。
俺は先日のことを思い出しながら茜を見た。
茜は、手ぬぐいで手を拭きながら俺を見返し、フッとどこか挑発的に口を歪めた。そして、ポンと妻の背を叩く。
「織り様、せっかくの松太朗さまのお誘いですもの。家のことはわたくしに任せて、今日は松太朗さまとのんびりされてくださいませ」
美しく女主人に微笑みかける女中に、妻はパッと顔を輝かせる。
「松太朗さま、ぜひ織り様と心行くまでごゆるりとなさってくださいませ。せっかくですから、たまには贅沢されても宜しいのではございません?」
俺に恩を着せるつもりだな。きっと水村殿から先日のことを聞いているのだろう。口止めのつもりで、妻を打ったと思われる。
まったく。
うちの妻ときたら、名のある武家の娘であるにも関わらず、師には質にされ、女中には売られ…。そして、当の本人は全くそれに気づかず。
俺は思わず妻の肩を抱いてしまう。
「しょ…松太朗さま…!?」
腕の中で驚いた声を上げる妻が、あまりに意地らしく思えてしまい、キュッと抱きしめてその小さな頭をポンと慈しむ。
「大人はときにイジワルかもしれないが、強く生きるのだぞ」
目頭が熱くなるのを感じながら妻に言う。
自分より年上の者にばかり囲まれ、いいようにつかわれるこの箱入り娘を助けてやれるのも守ってやれるのも、俺しかおらんではないか。
「あのぅ…松太朗さま。どうなさったのです?」
今度は不振がった声音で顔を上げて首を傾げる。
うむ。このように無防備で愛らしい姿を見せるからこそ、回りのおとなにいいようにつかわれるのだろうな…。
「では、茜あとは頼むぞ」
俺は織りの手を引いて家を出る。
「あ、茜ごめんなさいね、あとはよろしく」
手を引かれながら妻は残された女中に声をかけた。茜は袖を抑えて俺たちに手を振って「行ってらっしゃいませ」と送り出した。
妻は俺の横を遠慮がちに歩く。
こうしてゆっくり並ぶと分かるが、俺に比べれば妻は小さい。小柄な方ではないと思うのだが、嫁にしてはまだ落ち着きがないからだろうか、年より幼く感じるので余計に小さく感じる。
「松太朗さま、ご覧になって。メジロですわ」
よその家の庭先にある桜の木の枝にとまった鳥を指さしながら、嬉々として妻が言う。
「可愛らしいですわねぇ」
にっこりと笑う妻を見ていると、俺の心がほんわかと温かくなってきた。
よほど、お前の方が可愛いではないか。
春の陽気のように温かい微笑みを浮かべる妻は真っ青な空を見上げた。俺もそれに合わせて空を仰ぐ。
「うむ…もうすっかり春の陽気だな」
「そうですわねぇ」
「さて、どこに行こうか」




