逢瀬
妻が水村殿にやられて幾日か過ぎた。
もう春も近いようで、最近は昼間に日がさすとポカポカと暖かい。とてもいい陽気だ。妻を連れて河原まで散歩に来るのも悪くない。そろそろ土筆が芽吹くころだ。河原に採りに来て、茜におひたしにしてもらおう。佃煮がよいだろうか・・・。菜の花もそろそろおいしい季節だ・・・。
いかん。考えただけでもよだれが出そうである。
そんな事を考えながら、俺は道場まで足を運んでいた。
今年になってから、水村殿とは妻を抜きにしても交流しているのだが、それはもちろん剣術を習いに行っているわけでも、茶を馳走になっているわけでもなく、たまに碁を打ちに行っているのだ。
道場の裏手に回れば、水村殿の居住地がある。そこに炊事場も、碁を打つ縁側もある。いつも俺は裏手に周り、稽古をする門下生の竹刀のぶつかり合う音を聞きながら清介殿から茶を馳走になり、水村殿が戻ってきてから一緒に碁を楽しんでいる。だから、この日もそのつもりだったのだ。
道場の脇はいつものように戸を開けてあり、格子越しに中の様子がうかがえた。そっと中を覗くが、水村殿の姿が見えない。
(はて・・・?)
俺はそのまましばらく稽古を覗きながら水村殿の姿を探した。だが、いっこうに水村殿が現れる様子がない。
(裏に回って待ってみるか・・・)
道場の裏庭もきれいに整備されており、こと南側は日当たりもよい縁側があり今は桃の花が咲いており、しばらくのんびりとしていても飽きない。
小鳥の鳴き声を聞きながら裏に回っていると、なにやら人の気配がする。しかも一人ではないようだし、小さく声もするのだが、男女の声音であるのは間違いない。
うむ。
俺だって武家の生まれである。全く武道には励んでおらんが・・・。妻の方がよっぽど熱心に稽古に励んでいるので、おそらく彼女の方が俺よりずっと上手であるのも間違いないのだが・・・。人の気配や、足音で誰かということくらいは分かる。
俺は自分のその勘に自身をもって、足音を立てないように気配のする方へと行く。
壁に体を寄せ、自分も極力気取られないようにして近づく。
そっと顔だけを覗かせ・・・。
俺はギョッとした。
水村殿は俺に背を向けている。向けた背にほっそりした腕が遠慮がちに巻き付いている。水村殿がその腕を巻き付けている相手に覆いかぶさるようにして、少し前屈みになっている様子からして・・・。
俺は、いったん顔を引っ込めて、腕組みして考えた。
水村殿も隅に置けない。
稽古の合間に、どこぞの娘との逢瀬を自分の道場で重ねていたとは・・・。
俺はもう一度、そっと顔を覘かせて様子を伺った。水村殿が体を伸ばす。そして、自分の手を相手の頬か何かに添えるようなそぶりを見せた。反対の手は、自分の体に巻き付いていた娘の手に伸ばされ、遠慮がちに自分から離し、そのまま相手の娘の手に絡める。水村殿が、道場で竹刀を振りかざす素振りと同じようにそれは優雅なしぐさである。
他人の逢瀬にはち遭うなど初めてのことだが、なかなか・・・目が離せない。
(うむ・・・。)
自分のデバガメ精神に内心呆れながらも、その場を退く気にはならなかった。せめて、水村殿の相手の顔を拝みたいのだ・・・。
何を話しているのだろう。
俺が二人の様子を見ようと首を長くしたときだった。
「あっ・・・・・・!!!!」
思わず上げてしまいそうになった声を防ぐために自分で自分の口をふさぐ。相手の顔が見えてしまった。
水村殿を見上げ、嬉しそうに目を細めてほんのりと頬を染めるその姿の何と美しいことか。俺は驚いて声を上げそうになってしまったものの、相手のあまりに幸せに満ち足りた表情を見て、思わず見とれてしまったのだと思う。
妻は、俺に対してあんな表情をしない。
あんなに穏やかに幸せそうに微笑まない。
妻は俺の前では顔を真っ赤にしている。それか、目をキョドキョドさせて慌てている。妻はからかいたくなるくらいに、俺の前だと落ち着かないのだ。それは彼女なりに、俺を相手に男として意識して照れているのだと分かるから、余計にかわいくて仕方ないだが・・・。
頬に添えられた水村殿の手に縋るように顔を傾ける女――見慣れた器量のよい女―茜である。
(茜が水村殿と・・・)
確かに、考えれば不思議はない。
妻の付き添いや迎えなどで昔から互いに知っているだろう。
茜はうっとりと水村殿に体を預けた。
(う・・・うむ・・・。よもやこんな茜の女の姿を見る日がこようとは・・・・・・)
水村殿は寄りかかる茜に腕を回し、ぎゅっと抱きしめている。
人のこのような逢瀬に出会うと・・・俺も妻との逢瀬を楽しみたくなってきた。夜伽のような男女の生々しい交わりではなく、優しく触れるか触れないかのその爽やかでもどかしさすら感じるような逢瀬を・・・。それに妻の体を側に感じたくて仕方がなくなってきた。しかし、茜たちの様子も気になってしまう。
そういえば、妻はこのことを知っているのだろうか…。
いや…。知るはずもない。知っておればこうして茜にさっさと嫁に行くように言うはずだし、何より茜や水村殿がこうやってこっそりと逢瀬を重ねるはずがない。
よおぉぉく、耳をすませてみると、二人の饅頭のように甘い会話が聞こえてきた。
「茜殿・・・。いつまでもこうしておられれば、幸せなのですが」
聞いたこともないような、優しい声音の水村殿に俺はまた驚く。好いた女を側に感じるとき、誰しもこんな優しい声音になるのだろうか・・・。俺も・・・?
「まぁ、水村様ったら。ふふふふ・・・」
こちらも聞いたことのない鈴を鳴らしたような愛らしい茜の声。こんなに嬉しそうに話す茜を、俺は見たことがない。
「茜殿・・・そろそろ私と・・・」
契を!?
俺は水村殿が続けようとしている言葉を思い、目を丸くした。
まぁ・・・水村殿もいい加減良い年だし、茜もそろそろ次の嫁ぎ先を決めて良いころだろう。
しかし、茜は俺のそんな思いを知らず(当たり前だが・・・)、水村殿からそっと体を離した。
「まだ・・・だめです」
茜の言葉に、俺は眉をひそめる。
「なぜ?」
そう。なぜだろう。
水村殿はおそらく苦笑しているのではないだろうか。そんな声音だ。
「織り殿は、もう十分に茜殿の世話になったでしょう。いい加減、貴女の手を離れてもよいはずでは?」
まさか、ここで妻の名を聞くとは思わなかった。
あぁ、そうか。
茜は妻の今の様子からでは、自分が嫁に行くわけにはいかないと思っているのだな・・・。
茜は一瞬俯いたものの、すぐに顔を上げ水村殿にほほえみかける。
「わたくしが、もう少しおそばでお世話させて頂きたいのでございます」
茜・・・。
俺は、胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
俺がふがいないばかりに、妻の女中にまで苦しい言い訳をさせてしまうとは・・・。
「七夕まで・・・待ってくださいませ」
茜が水村殿に頼み込む。
水村殿の表情は俺からでは見えない。最後の言葉も聞き取れなかった。
しかし、その言葉を聞いて茜は頬を赤らめると、ずいぶんまぶしく笑って見せた。こんなにも美しく微笑むむすめだったろうか、茜という女中は。その女中は幸せそうに、そして少し恥ずかしがりながらまた水村殿に体を預けたのだった。
「み・・・水村殿、全く手加減をして下さらんのだな」
碁盤の上で完敗し続ける俺は、先日妻を情けなく弄んだ道場の師範代に、こちらも情けなくも泣き言を言ってしまう。
すると、手のひらの上で碁石を軽くジャラジャラと振ってみせながら水村殿はにっこりと笑った。
「いや~松太朗殿にのぞき見の趣味がるとは存じませんでしたよ」
俺は思わず、持っていた碁石を取り落してしまう。
「な・・・気付いて・・・い、いやいや。のぞき見など・・・」
慌てて言い淀む俺に、水村殿は爽やかな笑い声をあげ、そして俺の一手を待たずに自分の一手を打つ。そして、細い目を更に細くして俺に笑いかけた。
「分かっておられますね。織り殿に言ったら、今度は煤だけでは許しませんよ」
覘き見を気づかれ、更なる一手を打たれ、さらに脅しまでかけてくることに混乱している俺に、水村殿がどこまでも優しく、穏やかな笑みを浮かべた。それが、心底恐ろしい。
「う…うむ。分かっておる。織りを質にとるとは何という悪党なのだ」
「ははは。松太朗殿にはこれが一番きくでしょう」
「うむ…やはり悪党だ」
そして、碁盤を見ればすでに俺はどうもできない状況。完全に負けである。
「その…いつから、茜とは…」
腕組して碁盤を眺めながら、俺は水村殿に尋ねた。
上目づかいに水村殿を見上げると、きょとんと珍しく目をしばたかせている。そして、フッと微笑んだ。
ゆっくりと目を閉じて、そしてもう一度俺の方へと視線を戻す。
「秘密です。これは私たちの大切な思い出ですからね」
「…うむ……」
遠くでひばりの鳴き声がする。
もうすぐ、妻や茜、この水村殿と出会って、三つ目の季節を迎えようとしていた。




