幸福
結局、数馬の店でうどんを食って、そのままプラプラ歩いていたら、近所の神社についた。
「道場の帰りに鳥居が見えてはいましたから、神社があるのは存じておったのですが…」
道のはずれに鳥居があり、その奥は鬱蒼と木々が茂っているので昼間だというのに薄暗い。
「うむ…そういえば、近所ではあるものの初めて来るな」
俺は、薄暗い参道を腕組して眺める。横では妻が袖で口元を隠しながら目を丸くしている。どこか茫然としているようだが…それもそうだろう。何か恨めしや~と出てきそうである。いや、寺ではないので、そんなことはないのであろうが…。
「どうする、行ってみるか?」
俺は、妻を見下ろして尋ねた。
すると、妻はう~んと唸りながら、コクリと頷く。
「思えば、こちらに所帯を構えてはおるものの、こちらにご挨拶をしたことはございませんものね」
妻が俺を見上げながら言った。
「まぁ…氏子ではないしなぁ、お互い」
俺も妻の言葉に小首を傾げながら答えた。それに、もっと家から近い、そして明るいところに神社があるのだ。
「でも、道場の近くですしね」
俺が渋っていると、妻はにっこりと笑ってそう言う。
そんな妻の溌剌とした笑顔は実にまぶしい。嫁入りした奥方であるにも関わらず、いつまでも透明で清潔な印象を与える。だからこそ、しばらく手を出せずにいたのだが…。
俺は意を決して、妻の手を引いた。
「では、挨拶がてらに参拝するか」
「松太朗さま…あの…手…」
繋がれた手を見下ろしながら、遠慮がちに妻が言う。
この娘は、祝言を挙げてもう半年が過ぎたというのに、まだこうやって恥じらう。いつもは竹刀を片手に猛者に襲い掛からんばかりの勢いで稽古に励んでおるというのに。
俺はフッと笑った。
「かまわんだろう。夫婦なのだから。それに、織り殿がこの薄暗い中で迷子にでもなったら困るであろう、俺が」
子ども扱いしてからかいながら、俺は唇を妻の耳元に近づけて後半の言葉を囁いた。
「っ…」
擽ったそうに首を竦める妻の愛らしいことと言ったら…。
「ふっ」と吐息を耳にかければ「きゃっ」っと驚いたように目を丸くした妻が、真っ赤になって俺を見上げる。
「もう!またそうやってわたくしをからかう!」
「いや、織り殿のそのような姿をみると、そうせずにはおれんのだ」
怒ったようにきゅっと俺をにらみつけているつもりらしい。しかし、元来のどんぐり眼が迫力を半減どころか、無へとかえていく。
「もう!織りは知りませんわ」
そう言うと、妻は俺と手をつないだまま、ズンズン奥へと歩いていく。
「まぁまぁ。久しぶりに二人きりで出かけておるのだから、そうカッカするものではないぞ」
俺は妻の頭にポンポンと手を乗せて笑いを堪えて言う。
すると、妻はその手をやんわりと払いのける。
「松太朗さま。わたくし今年で十八になりますのよ。子ども扱いされる歳ではございませんわ」
「十八になるのか…」
本人はもうすっかり大人のつもりでおるようだが、十八の頃の自分を思い返してみれば…うむ。まだまだ甘ちゃんであったな。
「では、もう少し落ち着かねばなるまいな」
ははは!と俺は軽やかに笑いながら妻に言う。すると妻は苦虫を潰したような表情で「むぅ」っと唸ると、その言葉を意識してか、突然しゃなりと歩き始める。
俺は笑い出しそうになるのを堪えながらその横を歩いた。
短い参道の奥には小さな社があり、小さな鈴とその下には小さいながらもしっかりとした賽銭箱が置いてあった。
俺はそれを見ながら懐から小銭を取り出す。
「松太朗さま、まずはお手水」
妻が手水場を指さしながら言う。うむ。こういうところで育ちを確認する。
妻に促されるまま手水を済ませると、それを待っていたように妻がスッと手ぬぐいを渡してくる。
俺は一瞬、きょとんとその手ぬぐいと妻を交互に見やった。
「どうされたのです?」
手ぬぐいを俺に差し出したまま、きょとんと妻が小首を傾げる。
まさか、こうやって自分に手ぬぐいを差し出してくるまで気遣いができるようになっているとは…。しかもそうすることが当たり前であるかのように、己の懐から取り出した、女物の手ぬぐいを俺に渡してくれたのだ。
なんだか、それがいたく心地よい。
あぁ。俺たちはやはり夫婦だったのだな…。
俺は温かくもキュッと締め付けられるような胸の疼きを感じながらしみじみとそんな当たり前の事実をかみしめた。
「いや、すまんな」
俺は緩む口元と目じりを抑えられず、そのままの表情で妻から手ぬぐいを受け取る。
「ぅうっ」
その瞬間妻が小さくうめいて目を瞑る。
「なんだ、また目にゴミが入ったのか?」
そういって妻の顔を覗き込むと妻はなぜか顔を真っ赤にして目を潤ませながら「だ…大丈夫でございます!」と思いっきり言う。
それならばよいのだが…。
しかし、よく目にゴミの入る娘である。やはりどんぐり眼が大きすぎるだろうか…。
俺は妻に手ぬぐいを返して、社まで行く。
そして、二人分の賽銭を賽銭箱に投げた。
なぜだろう。この時、意識をしていないのに、なかなか手を開くことができず賽銭を投げられなかったのだ。まさかやはり恨めしや~なのか、物の怪の類か…。
小銭が賽銭箱に消えていくのを確認すると、なぜか胸がズキンと痛んだ。心なしか、目頭が熱い…。
そういえば、先ほども胸が妻の所作に胸が締め付けられるような思いをした。まさかこんなに健康であるというのに、胸を患ってるのだろうか…。
俺はそんな不安を抱えながら、とりあえず家内安全と禄が上がりますようにと願いを込めた。
俺が最後の礼拝を終えると、なんと妻はまだ何かしら拝んでいる。
ずいぶんと一生懸命だ。
しばらくすると、妻が顔を上げ礼拝し、俺を振り返って見上げてきた。
「お待たせいたしました。参りましょう」
その顔は実に晴れやかで、俺にはまぶしくすら見える。
「長かったな。何を願っておったのだ?」
俺が訪ねると、妻は年頃の娘らしく鈴を鳴らしたような軽やかな声で笑った。そして、スッと人差し指を自分の口元に当てたかと思うと、頬を桜色にして極上の笑顔を見せる。
「内緒ですわ。言ったら叶わなくなってしまいますもの」
「……」
その笑顔は、先日見た茜のものとそっくりだった。
うっすらと頬を染めて、目の前の相手にだけに見せる最高の笑顔。眩しいくらいに美しく、そして向けられたものの胸をキュッと締め付けるのだが…幸福にもしてくれるような。
そんな笑みだ。
あぁ…俺は本当にこの妻を愛してやまないのだな…。
胸の内がじんわりと温まるような、自然と笑みがこぼれてくるような、目の前の娘が愛おしくて仕方ない。
思わず俺は、妻を抱き寄せた。
「松太朗さま?」
突然のことであるにも関わらず、妻はいつものような金切り声を上げない。
俺は、この腕いっぱいに思いの限りを込めて妻を抱きしめた。
俺のやった香がうっすらと香る。
俺の頭一つ分は小さい妻。太ってなどもちろんいないのだが、武道をやっている割には女性らしく丸みを帯びた、フワフワに柔らかい身体。
「どうなさったのです?」
俺が何も言わないからだろう。
妻は不思議そうに尋ねてくる。低くなく、高すぎず、澄んだ小鳥のような声。
なおも何も言わない俺の背に妻が腕を回してきた。
「もう、新手のからかいですか?」
そんなことを言いながらも、どこか妻の声は落ち着いていて薄らと笑みを浮かべているような声音。それに安心感を抱いたのを自覚した。
「織り、俺と夫婦になって、幸せか?」
俺の言葉に、妻が声もなく驚いたのが分かった。
「俺は…幸せすぎて…すごく良いことなのだが…不安に駆られてしまったぞ」
大切なものができると、失うかもしれない恐怖が生まれる。
幸せを実感すると、まるで夢を見ているようで不安になる。
こんな思い、初めてだ。
妻は、ふふっと小さく笑うとキュッと俺を抱き返してくれた。
「わたくし、松太朗さまに嫁げたことを感謝しておりますの。だって…松太朗さまがとてもわたくしを大切にして下さているのがわかるのですもの。わたくし、とっても幸せですわ」
こんなにのびのびと穏やかに喋る娘だったろうか。
「松太朗さま。わたくしがずっとお側でお仕えいたします。だから、きっと大丈夫ですわ」
こんなに意地らしいことを言う娘だったろうか。
「そうだな…」
俺は、妻の腰に腕を回してより一層側にその身を感じた。
そして、体をはなす。
彼女の小さくマメのできた手を取る。すると、妻は俺のせんとしたことを察したらしく頬を染めたまま顎を上げた。
そうするときはいつも妻の瞼が震えている。
俺は、その震える瞼に一度唇を落とし、そして桜色の唇に己のものを重ねる。
身をかがめ、更に首を傾げなければそこに届くことのできない俺たちの身長差がもどかしい。しかし、その差があるからこそ、俺の妻に対する庇護欲が掻き立てられる。
妻が俺の着物を掴むと余計に意地らしく思えてならない。
あぁ。
俺は妻の幸せばかり考えていたが、本当はこの妻に俺が幸せにしてもらっていたのだ。
俺の心は春の陽気さながらに、温かかった。