【桃源郷の夢】
辺りはうっすらと霞がかったている。だが一面を覆う淡い桃色や黄色い花々が咲いているので、それが却って桃源郷か何かのようにも思えた。
フワリフワリと風が靡き、結い上げた髪と着物の裾や袂を揺らしている。
どうやら自分は少しばかり小高い丘の上に立っているらしい。
…お…ど。は…く…。
どこからか声が聞こえるので、織りはクルリと周囲を見渡した。すると、小さく紋付き袴姿の松太朗が、袖が捲れているのも気にせず、こちらに向かって手を振っていた。
「松太朗さま?」
ふと自分を見下ろすと、角隠しさえしていないものの、自分が白無垢姿でいることに気づく。
「あら?何故かしら???」
祝言など、とうの昔に済ませて、今では松太朗と枕を並べて床を共にする生活を送っているというのに…。
織りは小首を傾げて、そしてこれは夢なのだと、不思議な感覚で合点した。
ぼんやりしていると、いつの間にか、花弁を散らしながら松太朗が丘の上まで―織りを目指して上ってきていることに気づく。
「松太朗様?」
「まったく、何をぼうっとしておるのだ?」
呆れたように自分を見下ろす松太朗は、相変わらず見目麗しかった。
霞がった桃源郷に立つ松太朗は、まるで仙人か何かのようにも見える。自分の夢の中にいるにも関わらず、松太朗の問いかけにも答えられないくらいに、織りは彼に見とれていた。
しかしながら、桃源郷さながらの場所にいる松太朗が、黒い紋付袴でいることや自分が白無垢姿でいることだけが解せない。
「夢とはこんなものでしょうかしらね…」
小首を傾げたまま、織りは思わず口にしていた。
それを見ながら松太朗が眉を顰めたのは言うまでもない。
そして、白無垢姿の織りの手をとった。
「早く行くぞ」
「行くって…どこへ行くのです?」
松太朗に手を引かれながら丘を降りる織りは、のんびりと尋ねる。まるで、今日の夕餉の献立を聞いているかのような、呑気な声音だ。
それに対して、松太朗もどこかぼんやりとした声で答える。
「今から祝言の記念撮影をするのだろう」
「祝言の……?記念撮影…??」
解せないことばかりに、織りは眉根を寄せた。
「祝言など、ずっと前に終わったではありませんか」
今さら何を?を問いた気に織りは言う。
「それに……何ですの?記念撮影とは??」
聞きなれない言葉だ。
記念は…おそらく、祝言というめでたい席に即してのことであろうと予想はつくのだが…。
はて。撮影とは何ぞや……????
相変わらず織りの手を引き丘を下る松太朗が、振り向きもせずに答えた。
「俺たちの写真を撮るらしい」
「しゃ…しゃしん……でございますか?」
「うむ。まぁ、生き写しの絵のようなものだ」
そう言って振り返る松太朗は、実に柔らかいまなざしで織りを見ては微笑んだ。
きゅっと苦しくなる胸の内を自覚した織りは、我ながら調子のいい夢を見るものだと、頭の片隅で考えていた。
「花嫁がおらねば、写真が撮れんのだ。写真技師を待たせているのだから」
少し足早に、松太朗は丘を下る。
松太朗に支えてもらいながら丘を下る織りは、チラリと後を振り返る。
松太朗の肩越しに見える丘の頂上ははるか上。
もはや、先ほどからの霞のためその形はぼんやりとさえしている。
「ずいぶん長く下るのですわね」
「うむ。足は大丈夫か?なんなら、俺がおぶってやってもよいのだが」
足に体重をかけながら下りているわりには、鼻緒の食い込む足も、力の入る膝も痛くはなかった。
「大丈夫でございます」
「織り殿は強いな。頼もしい嫁御だ」
そう言って、松太朗は不敵な笑みを浮かべて見せた。片方の唇をクイッと上げて見せる松太朗は、いたずらを思いついた少年のようでもあり、百戦錬磨の武将のようでもあり、舞台の上の役者のようでもあった。
「ここら辺でいいだろう」
そう言うと、松太朗は織りの手を離して、その場に織りを座らせる。
「そこで待っていてくれ。今、写真技師をよんでくる」
「あ、ではわたくしも一緒に」
「花嫁はそこでおとなしく座ってまっていればよい」
にっこり笑うと、松太朗は羽織をはためかせながら更に丘を下りていく。
小さくなる松太朗を見ながら、そのまま織りは周囲を見回す。
やはり夢なのであろう。
霞がかった空は相変わらずぼんやりとしているものの、曇っているわけではない。春の野原をそのまま空にうつしたような色をしている。
風とともに、花弁が舞いあがりそれらが更に景色を霞がける。
ちょこんと座る織りは、祝言の記念だというのに、つの隠しをしなくていいのか。紅を塗りなおした方がよくはないかと考えた。
「この後は仕事に行かねばならんのだ。一発で決めてくれ」
いつの間にか、松太朗が隣に座っていた。正面には利玖が四角い箱を持っている。
「お母様、何をもっていらっしゃるのです?」
「織り、早くつの隠しをかぶりなさい。それに紅もはがれて…!」
相変わらず利玖は口やかましい。
利玖は、手にしていた小さな四角い箱を襟に差し込むと、ずんずんと織りの方へやって来た。
「まったく、お前は本当にぼうっとして!そんなでこれから松太朗様の妻としてのお役目が果たせるのですか!?」
「ちょ…お母様、もう少し優しくしてくださいませ!!い…痛いですってば…!」
髪をひっぱられ、顔を撫でられながら織りは娘の居住まいを正す利玖に、非難がましく言う。
松太朗は、そんな親子のやり取りは見ないようにそっぽうを向いた。
「お前のような娘を貰っていただいただけでも、ありがたいと思わねばならぬのですよ。しっかりとお努めあげなさい」
おしろいをはたき、紅を塗りながら、利玖は乱暴に言うと、一歩下がり娘を上から下まで見ると、小さくうなづいた。
「それでは、写しますよ」
利玖はまた、小さな箱を構えて二人に手を振った。
「うむ。三国一の花嫁になったではないか」
織りの姿を横目に見た松太朗は、満足げに膝を打つ。
「さぁ、織り殿。ここから俺たちの生活が始まるのだ。ともに歩んでゆこうではないか」
松太朗はそう言いながら、織りの手をそっと握った。
「はい」
薄紅色に頬を染めた織りが、しっかりと松太朗を見つめて頷く。
「では写しますよ。はい……」
織りは、パチリと目を覚ました。
真っ先に目に入ったのは、見慣れた天井のシミである。
目だけを動かすと、まだ暗い部屋で、横には松太朗が規則正しい寝息を立てている。
「変な夢……」
そう呟くと、織りは再び目を閉じた。
しかし、もう桃源郷のような夢を見ることは二度となかった。