マシロ視点
―― ……いつもと変わらぬ昼下がり、裏路地の一角で私はその子と出会った。
「カナイ!」
「んー。何?」
慌てている私とは対照的に、いつもと全く変わらずインドア派のカナイは、図書館の一角で本の頁を捲っている。
本を置き、私の声に驚き、位置のずれた眼鏡を外すと目頭を二本の指で、ぐっと押しながら続きを促す。
「助けて欲しいの」
「ちょ、は?」
私は胸元を片手でしっかりと押さえ、反対の手でカナイの手首を取った。そして、強引に引っ張ると、驚きながらも抵抗することなくカナイは腰を上げる。
きょろきょろとあたりを見回すと生徒がちらほら。
館内では拙いと思い。カナイの手を引いて、寮棟を抜け庭に出た。カナイはその間黙って私に腕を引かれてついてくる。
少し肌寒さを感じる季節にわざわざインドア派集団の図書館生が外にいるはずがない。
だから、人気は全くといって良いほどなかった。
良く私がうとうとしているベンチに、カナイを座らせると怪訝な表情で見上げてくるカナイの前に立つ。
そして、片手で胸元を押さえたまま、空いた手で上着のボタンをに手を掛けて外していく。カナイがどういうわけか慌てて私の手首を掴んで「ちょっと待て」と止めけれどそんなこと聞いてられない。
「待たないよ!」
とぴしゃりと口にすれば、流石、カナイ。
簡単に押し負けて手を引いてくれた。ほんの少し頬が赤いのはなぜだろう?
「この子が……」
いって胸元を開くとタイミングを見たように「にぃ」と短い泣き声を上げた。弱々しく勢いがない。
「―― ……猫」
どこか複雑そうな顔をして、そう呟くと嘆息する。
なんだろう? カナイなら飛びついて喜ぶと思ったのに。と、それよりも。
「助けてあげて。凄く弱ってるの、カタカタ震えてて……」
寒いのかと思って懐に入れてあげたのだけど、それでもまだカタカタと震えている。時々聞こえる泣き声もどんどん弱々しくなっている気がする。
カナイは仔猫と私を交互に見て、そっと私の手の中から両手で仔猫を受け取った。
優しく膝に抱き大きな手で撫でる。
仔猫を抱くカナイは微塵も嬉しそうな顔をして居ない。
―― ……それが、凄く恐い。
「どうかな? ギルドの傍の路地で転がされてたの……」
「ああ……分かった」
カナイが、何度かそうしているとぎゅっと力を込めて閉じられていた小さな瞳がうっすらと揺らいで、呼吸が落ち着いてきた。
「マシロ」
隣に座った私に、カナイは静かに声を掛ける。
私は続く言葉を聞けなくて「大丈夫だよね!」と、強く口にした。小さな猫の耳がぴくりっと反応する。
ごめん、大きな声出して……。
「他にも兄弟がいたみたいなの。離れたところで遊んでる仔が居たから。そこに戻してあげたい。出来るでしょう? カナイなら出来るよね?」
「―― ……」
カナイは何度か私と仔猫の間で逡巡したあと、細く長い息を吐いた。
「分かった」
「ホント?!」
「……俺が預かるよ」
「良いよ! 私が面倒見るから、どうしてあげれば良いか教えて」
「いや、しかし」
「診たいの」
「……はぁ」
カナイの溜息は重たかったが、根本的に優しいから駄目とはいわない。仕方がないな、と頷いてくれた。
***
それから私は、カナイとエミルの手を借りつつ、仔猫――みゃあと名づけた。愛はある。問題ない――の面倒をせっせと診た。
授業中も心配で私が全く集中できないことに呆れたカナイが、部屋に傀儡を置いてくれた。
何かあれば直ぐに分かるということだ。
用意した籠から出ることも、寝返りを打ったりして動くことすら出来ない状態のままのみゃあに何かあるとしたら、不吉なことしか思い浮かばない。
私は気分が重たかったけれど、出会ってしまったのだ。諦めたくはない。
一晩は越えてくれた。
だからきっとこれから少しずつ回復してくれるはずだ。
きっと、きっと、元気になって他の兄弟のところに戻って、お母さんのところへ戻って……時々顔を見せてくれる。
大丈夫。大丈夫。
ぎゅっと握った拳を空いた手で包み込み力を込める。
部屋を出るときと同じ場所。ベッドの隅っこに置かれた籠は微塵も動いていない。私たちが戻ると、傀儡は、ぽんっと白煙を上げて消えた。
丸くした小さな身体が僅かに上下していることだけで安堵する。
「どうしよう……もう、全然飲んでくれない……」
脱脂綿に含ませた調整したミルク。
昨夜は、なんとか少しずつのどの奥へと流し込んでくれた。
でも今日は力なく口の端から垂れていくだけだ。
じわりと揺らいだ視界に首を振る。
もう一度挑戦する。
何度も何度も。
繰り返す指先が震える。
恐い。このままこの鼓動が止まってしまったらどうしよう。
「ほら、変わるから、どけよ」
傍にいてくれたカナイがそういって肩に手を掛ける。私は赤くなった目を見られたくなくて、顔を伏せたまま立ち上がった。カナイは慣れた手つきで、仔猫の口に小指を差し入れて、少し口を開けさせ、出
来る限り奥のほうで、軽く絞る。
どのくらい入ったのか分からないけど、喉がこくんっと動いたことにほっとした。
もう少し。と思ったのにカナイは器に脱脂綿を戻して、手を拭う。
「これ以上は無理だ」
「でも、」
「駄目だ。無理にやれば苦しむだけだ……もう、分かってるんだろう?」
カナイのいう意味は分かる。私は俯いてきゅっと下唇を噛んだ。
「だから、お前が面倒みなくても良いっていっただろ……」
「―― ……けて」
「は?」
「助けて、あげてよ……助けてあげて……。天才魔術師なんでしょう? 猫好きでしょう? 見捨てないで、助けてあげて、駄目だなんていわないでっ、いわないでよ……」
どうしようもなくて、我慢出来なくて紡ぎ出した台詞にカナイが、ふいと顔を逸らした。
「可哀想だよ……まだ、こんなに小さくて、何も楽しい思いをしてないよ。もっともっと生きなくちゃ。ねぇ、カナイもそう思うでしょう」
必死に見上げる私と目をあわさないカナイの腕をぎゅっと掴む。カナイはそれを払うこともしないでただ黙っている。
私はそれが余計に苦しくて、瞳に溜まった涙がはらりと零れ落ちた。
「―― ……っ、すまない」
その途端、カナイに腕を引かれて目の前が暗くなる。頭の後ろに添えられた手に、ぐっと力が入ってカナイの胸に押し付けられる。
涙が、止まらなくなってしまった。止まらなくなった涙を早く止めたくて、喘ぐように言葉を紡ぐ。
「私の、ね」
「……ああ」
「私の世界の、魔法使いは……」
「ん」
「何でも出来るの。何でも出来るんだよ……病気だって簡単に治しちゃうの、事故で不幸な目に合ったって助けてくれるの。なんだって、なんだって、出来るんだよ」
私は実際に会ったことのない魔法使いの話をする。そんなもの御伽噺の中だけだ。子どもだっていまどき信じていない。
実際に目にしている魔法使いは、色々と制限がある。
色々と……限界がある。万能ではない。
分からなくない、でも頭が理解してくれない。
大丈夫なんじゃないかという、僅かな期待が、希望がどうしても消えてくれない。
「―― ……すまない。許してくれ。猫だって、お前のことだって好きだ。だから何とかしてやりたい。してやりたいけれど、無理なんだ、無理、なんだよ。俺には何も出来ない、これ以上何もしてやれない……痛みから、苦痛から救ってやるくらいしか出来ない、無理なんだ、俺は、無力なんだ…
…お前の望む魔法使いになれなくて、すまない」
微かに震えて口にする。
それを隠すようにカナイは私を抱き締める腕に力を込めた。
「ごめん……ごめんな……」
搾り出される声に、また泣きそうになる。
ずきりと悲しみ以外で胸が軋む。
私はひどいことをいった。
でもカナイは怒らない。怒らずに傷付いて謝罪している。
みゃあを抱き上げたときに、私だって分かった。分かってたのに……縋って、困らせて、挙句傷つけた。
苦しげにカナイは私を抱き締め、頭に頬を寄せる。
無力だと繰り返すカナイに胸が締め付けられる。私はあっさりとカナイの古傷を抉ってしまった。
「ごめん、なさい……」
私の謝罪に答えたのは、カナイではなく
「にぃ……」
みゃあだった。
同時に緩んだカナイの腕の中から抜け出して、籠に目を落とす。弱々しく、にぃ、ともうひと声。
私とカナイは床に膝を着き籠の中を覗き込んだ。どちらともなく手を繋いで、ぎゅっと力を込める。
繋がった部分はとても暖かいのに、目の前の小さな命は冷えようとしている。
呼吸がもう細い。
浅い……
「みゃあ」
呼びかければ薄っすらと瞳が開く。でも直ぐにそれは落ちた。
「―― ……にぃ……ぃ……」
弱い声の余韻を残して、みゃあは動かなくなった。
仔猫らしいふわふわな体毛は、呼吸に合わせて揺らぐことはない。窓から吹き込んでくる風に、タンポポの綿毛のようにゆらりと揺らされるだけだ。
もう、愛らしい声を立てることも出来ない……結局、私は何も出来なくて、みゃあの瞳が何色なのかもはっきり分からないまま、そのまま、逝かせてしまった。
じわじわっと視界が揺らぎ、涙が溢れそうになって、ごしっと拭う。そして、繋いだままになっていた手に視線を投げたあと、ふと、隣を見ると。
「ちょ……」
カナイが号泣。
私が声を殺せば慌てて手を解いて、両手首の内側で目をごしごしと擦る。
「うるさい。黙れ。何もいうな」
「……何もいってないよ」
哀しいはずなのに、口元が緩んでしまった。
***
そのあと暫らくして、みゃあの身体は乖離を始めた。
優しい光に包まれて、ふうわりと、消えていく光景は幻想的で、死の痛みを和らげてくれた。
残ったのは、小さな種。
もちろん、ブラックが慌てたようにやってきた。矢継ぎ早に何事か聞いてくるブラックに苦笑する。私が粗方の説明をすると、綺麗な指が、つっと私の目元を撫で、瞼に優しい口付けが降る。
「私は平気だよ」
苦笑して告げれば、そうですね、と相槌を打つのに私を包む手は心配そうだ。
ややして、ブラックに種が必要か聞いたら好きにして構わないといってくれたので、私は、庭の隅にみゃあのお墓を作った。
私の自己満足だけど、誰も何もいわなかった。
特になんの感傷もなく「水をやっても芽は出ませんよ?」と口にしたブラックの向こう脛は蹴っておいた。
まだまだ彼にとって命は軽い。
と、思ったらアルファが小声で「いわなくて良かった」と溢していた……全員の頭に疑問符だったのだろう。
エミルもアルファも心配そうに廊下で待っていてくれたのに、私たちの心配をしてくれるのに、命が尽きたそのあとのことにシル・メシアはとても無関心だ。
やれやれと苦笑して、地面に膝をつきみゃあのお墓に手を合わせる。
瞑目していたら、
―― ……ふわっ
膝に柔らかい感覚あった。
「え」
どきりと心臓が跳ねた。
恐る恐る目を開けると、ブラックが見上げて「にゃー」と鳴く。分からないなりに、彼なりに気を使ったのだろう。
私は苦笑して、ブラックを抱き上げた。
「ブラックは長生きしてよね」
額の辺りをやわやわと撫でながらそう告げれば、気持ち良さそうに目を閉じて擦り寄ってくる。
そして、頬を撫ぜる風に混じって、にぃと聞こえた。
その覚えのある泣き声に、顔を上げ地面を見る。
備えたばかりの小さな白い花が、風に揺れていただけだった。