(3)
柔らかな紅茶の香りに鼻腔を擽られ瞼を持ち上げたときには、もう背にした窓からはお日様の影は消えてしまっていた。
「おはようございます。紅茶入りましたよ? っと、今は飲めませんよね。とりあえず、マシロが作ってくださった、ガトーショコラでも一緒にどうですか?」
私はその台詞に体を起こし、ひょいと机の端に前足を着いて机上を覗き込んだ。真っ白なティーカップには上品なグリーンの模様が描かれている。お揃いのデザート皿には私が頑張って作ったガトーショコラが綺麗に切り分けられ乗っかっていた。
ふと気がついたらゆらゆらと尻尾を揺らしている自分に気がつく。
これは本能的なもので、意図的に揺らしているわけではなくて……あぁぁ……。
ブラックは、くすりと微笑んで一口食べたあと、私にも小さく切り分けてどうぞとフォークを差し出してくれる。お行儀悪い格好だけどそのままぱくりと頂いた。美味しい。流石私。
「これ、クリムラの味に似てますね?」
『うん。だって、クリムラのおばさんに教えてもらったんだもん。寮で作るわけにもここで作るわけにも行かなかったから、おばさんにお願いして作らせて貰ったの。それで、見かねて色々教えてくれたの』
だから確実に美味しいだろうという保障があった。同じように貰ったレシピで他も作ったのだけど、やっぱり一人で作ると何かとはしょられているのか上手くいかなかったんだけど……。
そのときのことを思い出して苦笑した私に、ブラックは心底感心したという風に、感嘆の声を上げた。
「マシロはやはり凄いですね。店を切り盛りするものからそのレシピを聞き出すなんて、普通出来ません。例え再現能力に乏しくても……」
褒められたのか貶されたのか微妙だ。私が眉間に皺を寄せ、苦々しく瞳を細めれば、ブラックは「褒めてますよ?」と加えるけど、とてもそれだけとは思えない。
『おばさんは、優しいよ。それに上手に出来てるね。美味しい』
自画自賛した私に、ブラックは機嫌良さ気に「そうですね」ともうひと口。そして、優雅にティーカップを傾けてから、コツっと残った箱に指を打ち付ける。
「こちらは何ですか?」
『まだ開けてなかったの? ブラックへの贈り物だから開けて』
素直に嬉しそうな顔をして、ブラックは小さな箱のほうのリボンへ手を掛けた。するすると解きながら、バレンタインについて問い掛けてくる。
私はそれに答えつつ、ぷるぷるっと髭に引っかかった粉糖を振るった。
「マシロの世界はサプライズで溢れているんですね? 流石美しいときを刻む場所です」
『それはどうかなぁ……私の住んでいたところは平和だったけどね』
それにブラックの居ない元の世界はとても色褪せていた。だから私にとっての美しいときはここにある。
「おや、珍しい。クリソベリルですね」
『そうなの? 猫目石っていわれてるやつかなと思ったんだけど』
「猫睛石ともいわれるものなので、同一でしょうね。綺麗です。魔法石に加工も……しませんよ? しませんけど、このくらい純度が高いものならかなりの法力を内包させることが出来るでしょう、という話です。マシロってものを見る目がありますね」
ありがとうございます。と、柔らかい笑みを浮かべ、続けてふわりと頭を撫でられる。
凄く気持ち良いけど……早く元の姿に戻りたい。
戻って、ちゃんと抱き締めて欲しい。
この姿はとても不便だ。
ふぅと長い息を吐いたところで
「もうすぐ戻りますよ」
それが合図になったように、私の体はぽふっと元に戻った。ちょこんっとブラックの膝に座ったままだったので慌てて立ち上がろうとしたら、そのまま腕を引かれて抱き締められる。
「やはりこちらのマシロのほうが良いです」
ぎゅぎゅーっと腕に力を込めて耳元で囁かれる。
「―― ……ん、私も」
そっと背に腕を回して力を込め擦り寄ると、少しだけ早くなった鼓動が聞こえる。それがとても心地良いし暖かい。胸が温かくなって、好きが溢れてくる気がする。
軽く胸を押せば少しだけ腕の力が緩む。窓から差し込んでくる月明かりが、ブラックの頬を青白く見せてとても綺麗だ。
つ……っ、と指先を滑らせて両頬を包み込んで引き寄せれば自然と唇が重なる。甘く食んで離れれば、柔らかく細められた瞳と視線が絡む。それがなんだか気恥ずかしくてお互いに微笑む。
本当に馬鹿だなと自覚する。
でもふと我に返って眉を寄せる。
「あ、でも……私、怒ってるよ。私の作ったものに勝手に薬とか混ぜちゃって! もう! 明日みんなに謝って回らないと……」
「すみません。独り占めしたいんです。マシロ全部。無理なのは承知してますけど……」
う。そんな可愛いことをいわれてしまっては、私はそれ以上責められない。責められないって分かってていってる? ってこういうところにブラックからは計算的なものを感じない。
なんというか、こういう部分がブラックはまっさらなんだ。それを私一人が汚している。
私はそれにとてつもない優越感を感じる。
だから、もう仕方ない。明日は謝って回ろう。
後遺症的なものが残るようなことではないし、きっと許してくれるよね。
「で、なんでしなっと制服脱がそうとしてるの?」
「皺になっては困るかと思いまして」
「―― ……」
静かに睨みつければしょぼーんっとしてお預け食らった犬みたいだ。猫だけど。ていうか……私が戻ったってことは……エミルたちも戻ったんだよね……。ああ、酷いことになっていなければ良いのだけれど。
そう思うと急に心配になってきた。
すっとブラックの胸を押して立ち上がると、不思議そうに見上げられる。
「私、寮に戻ったほうが良いよね。エミルたち酷いことになってるような気がしてきた」
外れたボタンを留めなおしつつ、そう告げればブラックは素直に嫌そうな顔をした。自分でまいた種だからね。えー、もしかして、私がバレンタインなんて考えたところから拙いの? ああ、根源なんて今更どうでも良いのだけれど。
―― ……ぐいっ!
「え?」
引かれた力にしたがって私は再びブラックの膝に腰を降ろした。今度は背後から抱き締められる形で……。私は多少暴れたけれど前に回された腕に力を込められて、諦めた。体格差も力の差もある。
がっくりと項垂れれば僅かに髪の間から覗いた首筋に唇を寄せられ、ぴくりと肩を跳ね上げる。そのまま話を続けるから、くすぐったくて仕方ない。
「駄目です。帰しません。大体カナイは昨日良い思いをしているのですから、少しくらい突っ込まれても平気です」
ん? 待て。カナイって大好き仔猫に囲まれて役得かと思ったけど……どうしよう、一緒に寝てたりしたら。それでもって、元に戻ったら。
考えただけで面白……いや、気の毒だ。アルファに殺されてなきゃいいけれど、ボロくなってる気がする。
今すぐ見たい。
見たいけど……今は擦り寄ってくる背後の猫の方が可愛い。
「大体、マシロを責める人なんて居ませんよ。明日戻れば分かります。それより『愛の誓いの日』なんですよね」
存分に誓いましょう。と、首筋を強く吸われて、ちりっと痛みが走る。それにふわりと熱を持つ体は正直恥ずかしいと思う。思うけど、首を捻って見上げれば、自然と降ってくる口付けがやっぱり嬉しい。
―― ……ハッピーバレンタイン…… ――
確かにこんなに満ちたバレンタインは初めてだ。