中編
―― ……昼から夜…… ――
午後は予定より早く家を出た。
おやつにあのあと焼いたパウンドケーキを持って……馬で。
「馬なんて飼ってたんだね?」
「飼ってますよ? 最初から裏に厩舎があったじゃないですか。遊ばせていたわけではないですよ」
ごめんね、大きな物置だなと思っていた。
掘っ立て小屋には見えなかったけど、どこも豪華に作ってるから、物置も立派なのだと思って、それに疑問すら感じなかった。だって、ブラック移動に馬なんて使ってるの想像出来ない。
猫は馬に乗らないだろ。
その予想に反して馬が良い子なんだと思うけどちょっとお尻が痛いかな? と、思う以外は実に快適だ。辺境はそう呼ばれるだけあって辺りに何も無い。何も無いから大草原状態で広々としていて気持ちも良い。因みにこれは散歩ではなくて明らかに遠乗りだ。それでも尚快適だと和んでいたのにっ
「走るのも早いんですよ?」
なんていい出して、私の了承も待たずに、ブラックはぱんっと馬のお腹を弾いた。舌を噛まないように気をつけてくださいねと付け加えてもらったけど、ちょっと遅い。噛んだ。
「―― ……ええっと、怒ってます?」
「怒ってない。機嫌が悪くなっただけ」
通常その状態を怒っているというのだろうけど、私の知ったことじゃない。
ブラックが連れてきてくれたのはどの辺りか分からないけど湖だ。
聖域の湖よりずっと拓けていて明るい雰囲気のする場所で水面から吹き上がってくる風が頬を撫で傍の木々を揺らしていく音はとても心地良いと思う。思うけど、お尻と舌が痛い。変な意味じゃなくて。普通に痛い。身体は緊張から多分明日には筋肉痛とかになる。絶対なる。
―― ……ぴとっ
「冷たっ」
「本当は暖かいものを持ってきたんですけど、冷たいほうが良さそうだったのでそうしてみました」
大きな木の幹に背を預けて座り込んでいた私の頬にキラキラと氷が煌いているグラスが当てられる。
「……ありがとう」
いつまでも膨れているわけにも行かないし、それがとても無駄なことにも思えて、私は素直にグラスを受け取った。
ちょっと口をつけるとご丁寧にラベンダーの香りがした。
その様子にほっとしたように微笑んだブラックは私の隣に座って自分もグラスを傾ける。
湖の畔では、二頭の馬が喉を潤している。私は一人で馬に乗れないから一頭で良かったのだけど運動不足だろうからともう一頭連れてきた。
凄く穏やかだ。荒立った気持ちすらあっさりと凪ぎいてくるくらい空気が優しくて柔らかい。
「そういえば、どうして今日なの?」
ふと、問い掛けた私にブラックはにっこりと微笑んで口元に人差し指を立て「内緒です」と答える。 その答えに私が首を傾げるとブラックは折っていた足を伸ばしてぽんぽんと叩く。
「少し横になっても良いですよ? ずっと緊張してたみたいですから疲れたでしょう?」
「……もしかしなくても膝枕してくれるっていってるわけ?」
普通は逆な気がする。
思わず怪訝そうにそう訪ねた私にブラックは当然というように頷いた。
「ここはそう危険の無いところなので、腕でも肩でもこの身全てでもお貸しして構わないのですけど」
「膝で良いです」
何をされるか分かったもんじゃないので、私は素直に膝を借りた。別に眠かったわけじゃないけど正直真っ直ぐ座っているのは痛かった。
腰とかお尻とか……うん……。
ごろんと女の子らしくも無く転がるとふわりと足元にブランケットを掛けてくれる。紳士的だと思うけど、相手にされている私は淑女とはいい難い。
ぼんやりと少し固い枕に頭を預けて青い空に掛かった薄い雲を追いかけていると、視界にゆらゆらとちらつくものが凄く、すごーく気になる。
ひょいと手を伸ばして捕まえるとブラックの身体が僅かに強張ったのが分かる。
苦手なんだよね? 尻尾掴れるの。どこかの異星人みたいに力が抜けるなんてことはないだろうけど、こういうのって多分一番無防備な部分なのだろうなと思う。
ちらとブラックを仰ぎ見て「駄目だった?」と問うと「いえ」と微笑んでくれる。だけど、若干頬が引きつっていることは見逃さない。
でも尻尾も離さない。
だって気持ち良い。滑々だし。頬擦りしたい!という気になっても仕方ないと思う。
なんとなーくねむーい気持ちになりながら、触り心地の良い尻尾の先っぽを苛めているとブラックに呼ばれて顔を上げる。影になっているのだけどほんのり頬が朱に染まって見えるのは気の所為だろうか?
「その、もうそろそろ、尻尾、離してもらえませんか?」
少し弱い声でそう告げたブラックに私はどうして? と、首を傾げつつも尻尾の先を撫でる。だって何かふわふわだし、その中にある骨なのかな?がこつこつしてちょっと楽しい。
「っ」
丁度そのときブラックが声を殺したのが分かった。あれ?もしかして……
「ブラック?」
私は片方の腕を突っ張って上半身を少し起こすとブラックの顔を覗き込んだ。ワザとらしく視線を逸らされるけど、頬が赤いのは気の所為ではなかったようだ。
ねぇ? と重ねた私にブラックは気まずそうに軽く咳払いをした。
「もしかしてくすぐったいの?」
「……くすぐったいというか、その、えー……と……」
と言葉を濁したあと、そっと私の顎を持ち上げて軽く口付けると唇が離れない距離で続きを口にする。
「ぞくぞくします」
つっと私の下唇を舐めて「ちょっと危険です」と続けそのまま唇を塞いでしまう。危険の意味を察した私は直ぐにブラック以上に真っ赤になり、慌てて尻尾を離してブラックの胸を押した。当然そのくらいではびくりともしない。
「だだ、駄目だよっ! 外だし」
「誰も見ませんよ」
「馬っ! 馬が居るっ!」
「じゃあ、消して」
「消すなっ!」
じたばたと暴れた私をブラックはぎゅっと抱き締めた。
どうするつもりかと刹那息を呑むとブラックがくつくつと肩を揺らす。もしかしなくても笑ってる。
その気配に眉を寄せた私を確認するように身体を離したブラックはそっと大きな手で私の頬を包み指先を滑らせながらいつもの余裕の笑みに戻って口にする。
「では、続きは戻ってからの楽しみにしましょう。折角ここまで来ましたし、もう直ぐ日が落ちます」
弱点とかだと良かったのになと思ったのに、私がブラックの弱点を見つけるなんて土台無理な話だったのかもしれない。