第三十九話:素養に狂わされる人々
「ケレブ=ターリ様! お控えください」
反対側に居た兵士さんが、一輪咲きの花のように美しく儚げな女性の前に立つ。水面を映したように美しく流れる水色の髪。若草を思わせる瞳の翠。美しい宗教画にでも描かれていそうな立ち姿だ。そして呼ばれた名。直ぐにエミルのお母さんだと分かった。
「高々兵士の分際で、わたくしに意見し行く手を阻もうとは愚かなこと!愚行を控えなさい!」
ぴしゃりといい放った声はどこか常軌を逸していると思った。
「マリル様。アルファ様のところへお急ぎください」
こそりとそう囁いてくれた兵士さんに促され私は降りてきた階段にそっと歩み寄った。別に私はこそこそする必要はなかったけれど見付からないに越したことはなさそうな感じだ。
「その色! その娘がマリルですね!」
うわっ! ご指名はどうやら私だ。私がぎくりと肩を強張らせ、振り返ると兵士さんを振り切ったケレブ様が憎しみに満ちた瞳で私を睨みつけ走り寄ってくる。きらりとその手元が光った気がした。
―― ……カラン……
身構えた私の視界にはケレブ様は居なかった。その代わりに見慣れた後姿があって対峙したケレブ様の手首を捉えている。足元には用を成すことのなかった短刀が落ちていた。この人初対面の私を殺す気だったんだ。私は向けられた殺意に心が冷えた。
「ここは、王妃殿です。その場でこのような騒ぎを起こすことのほうが余ほど愚行じゃないですか?」
騎士塔のときよりは幾分か落ち着いているものの、怒りを含んだアルファの冷たい声を聞いてもケレブ様は悪びれる風もなくその手を振り払い
「我が最愛の嫡男セルシスを死に追いやった、騎士風情が知った口を叩くな!」
そう罵声を浴びせると共に反対の手でアルファの頬を思い切り打った。アルファはそれに抵抗することなく、もう一度、重ねられた手のひらをその頬に受ける。衝撃で口の中を切ったのだろう。じわりと口の端に血が滲んだ。
「お前が騎士であることなど許されない! わたくしに残された最後の愛息であるエミリオの傍に置くことなど、わたくしは許していない!」
もう一度手を振り上げられ慌てて私はアルファの横から出てその手を掴んだ。こんな痩せ細った腕からこんな力があるなんてと思わずにはいられない勢いだったけど、至って健常な私だし止められないほどではなかった。マシロちゃん下がってと声は聞こえたけれど下がれない。だって今手を離したら私が殴られちゃう。いや、そこが問題じゃないけどね? それにこんなのは間違ってる。アルファは十分にその責任を感じているし反省している。ずっとずっと悔いている。それを知ろうともしない理解しようともしない人にアルファのことをとやかく攻め立てることなんてして良いことじゃないことは明らかだ。
だから私は絶対に引かない。きっ! と対峙するケレブ様を見上げてはっきりと口にする。
「アルファは悪くない! 今彼を責めるのは間違えていますっ!!」
決して気圧されないようにしっかりと見据えて負けないように怒鳴る。しかし、ケレブ様は口角を引き上げ簡単に私の手を振り払い、そしてホールに響き渡るように高らかに笑い口を開く。
「騎士に罪がないと? はっ、笑わせるな。護衛対象が死に何ゆえ、騎士のみが生き残る? こんな唯の小娘がマリルとは、どうかしている。このような娘が居るから全てが狂う。わたくしからセルシスを奪いエミリオを奪い……これ以上わたくしから何を奪う!」
狂気に満ちた瞳に私は立ちすくむ。それでも何とか、違うと声を上げたかったのに後ろになっていたアルファが私の腕を掴んで「堪えてください」と呟くものだから私はそれ以上食い下がることは出来なかった。アルファが我慢しているのに、私が我慢しないわけにはいかない……きゅっと下唇を噛み締めると、傍で早くキリア様を、ターリ様付きはどこだと騒ぎ立てている声が私の耳には静寂にしか思えない。全ての音が消え去り、ケレブ様が紡ぐ呪いのような言葉だけが頭に反響する。
―― ……私の所為……私の所為で、全てが狂う……。
「わたくしにはエミリオしか居ない。今のわたくしにはあの子が必要なのに……あの子はわたくしの元から去り、わたくしを取り残す。全てはマリルの仕組んだ罠。この小娘がわたくしの可愛いセルシスを誑かし引き離す」
私の心に直接打ち込まれた楔がより深く食い込んでいく。彼女が明らかに錯乱状態にあるのは分かる。もう既に二人の息子の区別すらつき難くなってしまっているのだから。エミルと同じ色をした瞳が涙で濡れている。
私にはその憎しみを受けることも交わすことも出来ず、心が震え動揺に視界が揺らぎ立ちくらみを起こすと何かが聞こえてきた。
『我が声は白き月の歌声。我が謡う詞は青き月の調べ。我が紡ぎだす旋律は荒ぶる者に静寂を与える』
扉から吹き込む風に乗って紡がれる唄。優しい風が私たちの間に割って入り、私の身体はアルファが支えてくれた。対峙していたケレブ様は、ふっと膝を折るとそのまま床に倒れこんで意識を手放してしまう。
「早くキリアを呼びなさい。久しぶりに戻ってみれば何の騒ぎですか?」
こつっと扉を潜ってきたのはつい先ほどまでベッドの中に居たはずのアセアだ。……そう思うってことはきっと彼女が双子の姉メネルなのだろう。彼女は手にしていた杖をくるくると回して後ろに持つとニコニコ私たちのところへ歩み寄ってきた。
「貴方がマリル様?」
やんわりとした笑みを湛えて私の顔を覗き込んできた美人さんに私はアルファに支えられたまま「マシロです」と答える。
「おい、何の騒ぎだ? 今誰が魔術使ったんだ」
慌しく階上から聞こえてきた声に私は安堵し、助けを求めるように仰ぎ見ると声の主だったカナイは……カナイなんだけど……。
「あんたこそ、何やってたの?」
血だらけだった。
私はかなり不機嫌だ。不機嫌という言葉を身体中で現しているつもりだ。その証拠にハクアが目の前でおろおろし尻尾を揺らしながらうろうろとしている。遠巻きにエミルたちもどうフォローしようかと思案中なのだろう。
つか、直りませんから! ちょっとフォローが入ったくらいじゃ私の機嫌は良くなりませんからねっ!
「主」
「何!」
これの繰り返しだ。
カナイの血だらけの理由はハクアだった。私はまだ薬師でも中級階位だから、知らなかったのだけど、聖獣指定を受けている白銀狼の血液はかなりの秘薬精製に役立つらしい。それを利用してアセアの延命に役立てたいということだったらしいし、その所為でアセアとメネルのお母さんはあんな調子だったようだけど。
だからといって私にひと言の断りもないのはどういうこと?!
「主……私には何故、主が怒るのか皆目見当が付かない。許してはもらえないのか?」
椅子に腰掛けて、ぶぅ垂れている私の膝頭に額を押し付けてそう寂しげにされると、私が悪いことをしているようだ。いや、それは違うっ! 断じて違う! 違うと思うのに……。
「本当に分からないの?」
ゆっくりと問い返した私にハクアは顔を上げて真っ直ぐ私を見詰めると分からないと答える。はぁ、私、この金銀妖瞳には弱いな。綺麗過ぎる。意地悪している気になってしまう。私はSじゃないからそんな風に感じてしまったら、これ以上強くは出られない。
はぁ、と嘆息して私は話を始める。
「あのね。私はハクアの主でしょう? だったらそんな大切なこと内緒にしないで。ていうか主従関係とか関係なく、話さなくて済ませるようなことじゃないでしょ! そっちの三人にもいってるんだからね!」
いきなり矛先が自分たちに向いて、三人がこわばったのが分かる。頬を冷やしていたアルファが氷袋を取り落とした。ちょっとだけ楽しい。
「しかし、主に害が及ぶような話ではなかった」
ひくっとこめかみに青筋が立ったような気がする。ゆらりと立ち上がって指差し確認。人を指差してはいけません。でも今は例外。
「あ・の・ね! 私に害がなくてもハクアには害があったわけでしょっ! その前足の傷は何!」
「これは明日には治る」
「いつ治るかが問題じゃないのっ! これまでだってちょいちょい同じようなことが合ったけど大抵黙ってたよ? エミルたちが間違うようなことするはずないって、私の為にと思ってくれてるって信じてたから」
なんか口に出したら泣けてくる。泣いてる場合じゃない。きゅっと下唇を噛み締めた私にカナイが恐る恐る「お前話したら絶対反対するだろ」と口にした。その発言にぎっ! と私に睨まれてカナイは一歩下がる。
「反対するよ! 当たり前じゃないっ! 反対するさっ! 一度はね?! でも、ちゃんと説明してくれればアセアの為だって話してくれたらちゃんと納得するよ。そうしたら、ハクアの傷の痛みは分け合えなくても心の痛みくらいは分けられたでしょ? 誰だって、自分自身に傷を作るのはそれなりに覚悟が要るんだよ。私はハクアの主でしょう? 貴方の痛みくらい私にも少し分けてよ」
―― ……はらり……
堪え切れなかった涙が頬を滑り降り反射的にしまったと思った。今日はこんなのばかりだ。慌てて顔を拭おうとしたら視界が暗くなり、自分の足で立っている感覚がなくなった。この重圧感は確実にハクアだ。何度も私に乗っかるなといってるのに忘れてしまっているらしい。
「風よ!」
床との接触を覚悟して、きゅっと目を閉じると慌てたようなカナイの声が聞こえた。滑り込むように吹き込んできた風がクッションになって床との直撃を間逃れた私は圧し掛かったハクアに頬を舐められた。お陰で涙は引っ込んで良かったけど本当勘弁してください。がっつりハクアにホールドされてしまっている私を解放する為に慌ててカナイとアルファが寄ってくれる。
「マリル様は私が思っていたよりもずっと近い方なのですね?」
「うん。とても近いよ。もっとずっと手の届かない人だったら良かったのにね」
視界の隅に見えたエミルとメネルの会話は聞こえないけれど、きっと久しぶりに会ったのだから咲く話もあるだろう。それにしてはエミルの表情が些か暗い。ああ、そうか。お母さんのことかな? 多分あまり人に見られたいものじゃないだろうし、傍に寄ったエミルに気が付いたケレブ様はキリアさんがくるまで縋り付いてうわ言のようなことをずっと呟いていた。起き上がらせてもらいながらそんなことを考えていると、メネルが傍寄ってきていた。
「少しお散歩しませんか?」
どこか少しエミルに似た優しい笑顔だった