第三十四話:世界で一番優秀な家庭教師
―― ……静かな夜だ。
カナイはエミルの元へ書類を届けなくちゃいけないからと今日もやはり寮を空けた。アルファも居ない。エミルはもちろん居ない。シゼはさっきまで私のことを気に掛けてくれていて傍にいてくれたのだけど、ラウ先生に呼ばれてしまった。渋っていたけど、もう月も高い。そのうちブラックが来るからとシゼを送った。
屋上にはまだ雪が残っている。足元からの冷気に眠気などおきない。
これから先の私。これまでの私。考え事をするには丁度良い。
シゼのあの様子からして、やはり私の選択って実質三択だ。図書館を出てどうするか。出ることは決定したほうが良いだろう。エミルたちが居なくなってからたったの数日だけど、エミルたちが図書館から居なくなるかも知れないという噂はあっという間に広がって、誰が次に私を担当するかで色んな人に声を掛けてもらった。私はまだ中級階位だから上級階位の誰かに世話を焼いてもらわないといけないのがルールだ。
これまで気がつかなかったけど、エミルたちの抑止力はかなりのものだったようで、箍が外れたように人に揉まれる。これではシゼに迷惑が掛かるのは必死だし勉強という雰囲気でもない。だから、私はここを出るべきだ。アリシアが上級階位になってくれていたらこちらからお願いしたのにと思うと溜息が零れる。
「溜息は幸せを落としますよ?」
月を背にふらりと現われたブラックに顔を向ける。ブラックはゆっくりと歩み寄って来て、そっと私の頬に触れ軽く口付けてから隣に座る。
「こんな所に居ると風邪を引きますよ?」
「うん。でも、そこそこ回りが五月蝿いからここが丁度良いんだよ」
いって苦笑した私に、ブラックはそうですかと頷いたあと私と同じように月を仰いだ。月光に照らされる横顔は青白く冷ややかだけど端正な顔立ちを際立たせていると思う。いつもと同じ、同じなんだけど
「ブラック、何か悩んでる?」
「はい?」
私の問い掛けが本当に意外だというようにブラックはどうして分かるのかといっているのか、そんなわけないといっているのか分からないけれど数回大きく瞬きをして私を見た。
「悩んでいるのは私ではなくてマシロでしょう?」
それはそうなんだけど。
「私に出来ないことを探すほうが難しいので、安心して頼ってくださいね?」
にっこり平然とそんなことを口に出来るのはブラックくらいだ。その余りにも溢れすぎている自信にちょっと笑ってしまう。そんな私と同じように、ふふっと笑ってくれるブラックが好きだし、頼りにしてる。
頼りにはしてるけど、頼ることと甘えることの違いが私には良く分からない。
だから出来る限り自分でなんとかしたいと思うんだけど、本当私個人に出来ることって限られてるんだよねぇ。はあっと息を吐き出すとほわりと綿菓子のように白くなり風に攫われていく。
「マシロ、寒いの好きじゃないです」
「じゃあ、部屋で暖かいものでも飲もうか?」
いって立ち上がると仲良く寮棟へ降りる。でもブラックは暑いのも苦手だ。体温まで面倒臭がりなのか調節を嫌がってる気がする。
翌日驚くことが待っていた。
「どうしたの?」
朝早くから部屋の扉を叩く音に目を擦る。起きなくてはいけない時間になってはいるものの、一人だと朝ごはんを食べに行く気もしなくて今日から寝る時間に宛てることにしたのに。と不満げなまま扉越しに訪問者の名を尋ねて驚いた。
「おはよう。寝てたみたいだね? 朝は食べたほうが良いよ?」
「あ、うん……ごめん」
私の問い掛けは無視なのか、朝からいつもの爽やかスマイルでそう告げてくれたのはエミルだった。
「僕お腹空いてます! マシロちゃん、早く早くっ! 顔洗ってきてください」
「え、えぁ、うん」
横からにょきっと生えてきたアルファに押されて私は扉を閉め慌てて顔を洗いに行きながら「なんで?」と首を捻る。兎に角急いで身支度を整えて、再び廊下に出る。私的には凄く急いだのにアルファに「遅いよー」とぼやかれて反射的に謝ってしまった。
ずるずると殆どアルファに引きずられるように食堂に付きいつもの場所に腰を降ろす。えーっと?と首を傾げる私にエミルがやっとにっこり答えてくれた。
「もう少しここに居るよ」
「え? ええ! でも」
「こっちの授業は午前中だけだし、向こうのほうは午後からにしてもらうことにしたから」
え、ええぇ? 驚きが拭えない私に、トレイを器用に抱えて戻ってきたアルファはいつものように皆の前に置いて楽しそうに笑っていた。
「マシロちゃん、驚きすぎ。金魚がぱくぱくしてるみたいですよ?」
「いや、金魚は酷いよ。ていうか普通驚くよね?」
だって、もう私が王宮に入ることを選択しない限り、特にエミルは会えないんじゃないかと思ってたから凄く嬉しいし凄く吃驚だ。
「昨日までは、この間の会議の資料を纏めて陛下まで上げるのに少し手間取ってたんだ。でも、まあ、あの場で決めた通り押し通したし通ったから気にしなくて良いよ。それが済めば少し落ち着いたから、先にいったようにしようと思って」
にこやかに話してくれるけど、それってもしかしなくても私の為にまた余計な仕事が増えているんじゃないだろうか?
「マシロちゃんって本当甘え下手ですよね? 甘やかせてくれる人が居るんだから甘えとけば良いのに」
あっけらかんとそう口にしたアルファをカナイが制し、苦笑して私に告げる。
「ブラックが発破掛けに来たんだよ」
カナイの言葉に私は益々怪訝な顔になるが、エミルはふふっとお上品に笑って続ける。
「良いんだよ。本当のことだしね。素養に寄り掛かって一つのことしか出来ない無能だといわれたよ」
怒ってる? 怒ってない? 怒ってるよねぇ? ひくっと頬が引きつるのを我慢出来たかな?
「ブラックも素直じゃないんですよね。マシロちゃんが心配だから傍に居てあげてっていえば良いのに」
ねぇ? とアルファに振られても私が困る。そ、そうかな? と答えるのが精一杯だし笑いも乾いてたと思う。
「実際僕も気になってたから、困ったことになってそうな気がして。だから一度はこちらに戻るつもりだったんだ。夜の勉強会は続けて上げられないんだけど、図書館に居る間は一緒に居て上げられるから安心してね」
無理を押して傍に居てくれる皆になんだか嬉しいけど申し訳なくて頷き損ねていると、エミルがにっこりと「こういうときは?」と促してくれた。
「……ありがとう」
それで十分だよと微笑むエミルたちの気持ちが泣きそうなくらい嬉しかった。嬉しかったから私はその日の午後直ぐに行動に出た。
「というわけでね、お願いみたいな、相談があるんだけど……ブラック?」
今日は平日にしては珍しく、私たちは久しぶりに夜は外で取ることにした。わけだけど、いつものお店のいつもの席。料理もいつも通りその日のお勧め。私がギルド依頼を受けて知り合いになったお店で、ちょっとした隠れ家的なところが気に入っているのだけど。いつもなら食べるの後回しにしてでも私の話を聞いてくれているブラックが上の空だ。
名前を呼んでも気がつかないからもう一度改めて呼びかけると「あ、はい」とやっと気がついたようでようやく目が合う。
「どうかしたの? ぼーっとしてるなんて珍しいよ。私の話聞いてた?」
「大丈夫ですよ。聞いてました。えっと、エミルたちに釘を刺しに行った話しですよね?」
「……それは会って直ぐ、怒った話。本当のことだしエミルたちも迷惑には思っていないから私が気にしなくても良いって、強引に治めたんだよね。でも、私が気分を害したならと連れて出てくれたんじゃなかったっけ?」
私の言葉にブラックは「ああ」と零して、そうでした。と眉を寄せて微笑んだ。今のブラックは十人居たら十一人くらい聞いていない人までオカシイといってくれるだろう。
「体調が悪いとか、機嫌が悪いとか、心配事があるとか、何かあったらちゃんといわないと駄目だよ? 役にはたたないと思うけど」
過去に一度、倒れてしまった経験のあるブラックはそのときのことを思い出したのかほんの少し苦い顔をしたものの直ぐにいつも通りに戻るとにっこりと微笑んで「私は大丈夫ですよ」と話を戻した。
「少し考え事をしていただけなので、そのことはまた私の考えが纏まったら聞いてください」
余りにも普通に戻ったから私はそれ以上言及出来ずに、え、ああ。うん。と頷くに留まった。そして改めて座り直すと自分の話を続ける。
「えっと、さっきの話はブラックにお願いがあるって話しで……うん、そう! 私ね、ブラックに家庭教師をお願いしたいんだけど、駄目かな?」
「私に、ですか?」
不思議そうに首を傾けたブラックに私はうんうんと頷く。そして、ブラックは構いませんよと頷いたあと、のんびりと食事を続けながら問い掛けてくれる。「マシロは少しエミルに似ていますね?」と前置いて。
「どういう話の流れでそんなこと思いついたんですか?」
「あ、そうだった。ごめん」
うん、不本意だと思ったけど私も十分説明上手とはいえない。
「これからどうするかを決めて欲しいってエミルにいわれてたから考えてたんだけど。それでね、私、図書館を出ようと思って」
一度間をおいてちらりとブラックを見たけれど、特に驚いた風ではなく目が合うと続きをどうぞというように頷かれた。
「私ね、アルム学長に直接会ってきたんだけど」
そう続けるとあの人とすんなり面会出来るなんて流石ですねーと感心顔だ。ラウ先生に会いたいとお願いしたらすんなり名前パスだったけど普通は違うのかな? 首を捻ったものの私には得る答えはないから話を続ける。
そして、なるべく順を追って詳細を説明していくと、それが終わる頃にはお腹もすっかり満たされて私たちは店を出た。