第二十三話:堕ちた月(2)
次に私が目を覚ましたのは夕刻だった。
子どもたちがわらわらと私の部屋を覗きに来て、入室を許されていないのか窓辺から次から次と違う顔が出たり引っ込んだりしている。
なんだか人間もぐら叩きでも見ているようで、ちょっと笑ってしまう。目が合って同じように笑ってくれたのに「うわっ! 先生だ! 逃げろっ」という声でクモの子を散らすようにばたばた走り去ってしまった。
「私は鬼か何かですか、全く……」
ぶつぶつと零しながら軽いノックと共に部屋に入ってきたレニさんと目が合うとレニさんは笑って肩を竦める。こうして内側に居ると絵に描いたように平和だと思う。日中は子どもたちの活気に溢れ、夜は静かに更けていく。当たり前の日常だ。
「……あの、誰かから、連絡ありませんか?」
「ありませんねぇ。暫くは絶対安静だと加えたので、皆さん時間を置いているのではないですか? お忙しいとか……」
「そう、ですね」
昨日と同じように、食事と薬湯を用意してもらいそれを口にしながらそんな話をする。
でも……おかしいな。ブラックやエミルが忙しいにしても、アルファやカナイなら直ぐに来てくれそうな気がするのに……というか、エミルが直ぐにでも迎えをよこす手はずを整えてくれそうなものなのに。
かちゃかちゃと食器の中身を行儀悪くいじめて、口に運べなくなってしまった私にレニさんはやんわりと話を続けてくれる。
「都合が付かないだけですよ。ある程度回復するまで、こちらに任せてくださっているのかも知れませんし」
そんなに泣きそうな顔をしないで下さいね。と続けられて、こくんっと頷くことしか出来ない。レニさんがいうことは分かる。分かるけど……寂しい。
「それより、傷の調子は如何ですか?」
「あ、はい……昨日よりは良いと思います。動かすのはまだ、少し……」
「そうですか。傷の様子を後で見て、明日、明後日のうちには糸を外して起きましょうね。肉が絡むと痛みますから」
はは、レニさん、食事中の会話じゃないよ。
曖昧に零した私の笑いに気が付いたのか、レニさんは「すみません」と少し慌てたように謝罪した。
レニさんって結構人間味溢れる感じの人なんだな。どこかその様子にほっと胸を撫で下ろし、私は食事を続けた。
食後薬を飲み、眠りに付くと今度はようやく日中に目が覚める。
怪我をしているのも上半身だけだし、自分で起き上がることも割りと平気になった。もぞりとベッドから起き出して、ぶらりと腕が下がっていると傷が痛むので手近にあったストールを三角巾替わりにして腕をつり、少しだけ外に出る。
冷たい風がひゅぅっと吹いてきて私は身体を縮めた。部屋の中は全く寒暖なんて感じなかったのに、外はやはり寒い。
―― ……雪、だ。
緑と白の単調な印象だった教会は今、白一色に変わっていた。この辺りに人が寄ることは少ないのか見える庭には誰の足跡も残っていない。
「おねーちゃん」
怖いくらいの静寂の中私は痛む身体を抱き締めた。
声が掛からなければ泣きそうだったかもしれない。
私は、掛かった声に振り返る。声を掛けてくれたのはユイナちゃんで、ぱたぱたと駆け寄ってきてくれた。
「おねーちゃん、起きて大丈夫なの?」
「平気だよ。寝てばかりだと根っこが生えちゃう」
にこにことそう口にすると、ユイナちゃんは明るい声で笑ってくれた。元気そうで良かった。こんな小さな子が、今の私と同じ痛みを受けるくらいならやはりこれで良かったのだと思う。
「あ、ユイナちゃん。レニさんから何か聞いてない? 誰かが私を迎えに来てくれるはずなんだけど」
「ううん。何も聞いてないよ。誰か来てくれるの? あ! 市場で会った王子様?」
屈託ない笑顔でそういったユイナちゃんに、私もにこりと微笑んで頷いたものの……なんだか自信なくなってきた。
「他にも、来てくれそうな心当たりはあるんだけど、皆忙しいみたいで」
口に出すと余計に寂しくなってきた。本当に、皆忙しいから来られないのかな……本当に……
「おねーちゃん!」
「っえ?」
「大丈夫! きっと迎えに来てくれるよっ。ここの皆ね、皆。誰かが迎えに来てくれるの待ってるの。でも誰が迎えに来てくれるか分からない子ばかりだから、皆少し寂しいの。でも、おねーちゃんはちゃんと分かってるんでしょう? なら、大丈夫だよ! きっと、大丈夫!」
ぎゅっと小さな握りこぶしを作って力強くそういってくれるユイナちゃんに、私も何とか「そうだよね」と笑って見せた。子どもにそんな心配を掛けるなんて私もどうかしている。
―― ……大丈夫。きっと、大丈夫。
そう、何度も何度もいって聞かせたのに、不安は庭を覆いつくす雪のようにどんどん私の心を覆い尽くして……傷の痛みよりも、今は心の痛みの方が酷くなった。
無事に抜糸も済ませてもらい、勢い良く動かしさえしなければ耐えられる程度まで回復した。
今日はレニさんが魔法士さんを呼んでくれるといっていた。授業で聞いたことによると魔法士という人は、魔法の力で傷跡を消したり煩っている部分を見つけたりしてくれる人で、治癒師と薬師の素養を併せ持った人のことをいうらしい。
私は日がな一日ぼんやりと外を眺めていることが多かった。
自分で歩くにも不自由しなくなったし、帰らなくてはと思うものの、私はマリル教会から出ることが出来なかった。あれからも何度かレニさんに使いの話は聞いたのだけど、確かに連絡は届いているはずだといわれるのに一向に図書館から連絡はない。
―― ……私はもうあの場所には必要ないのかもしれない。
どうしてだか分からないけれど、そう思えてならなかった。
「これは酷い。女性にはお辛い傷跡でしょう。大丈夫ですよ、余ほどの古傷でない限り治せない傷はありません」
そう魔法士は豪語したのに、傷跡は表面的なものだけで盛り上がった肉芽は消えることはなかった。レニさんは酷く申し訳なさそうで、私なんかよりずっと焦燥してしまっていたけれど、私は元のように動きさえすれば特に問題ない。
「今日の薬です」
そう言ってここで初めて目が覚めたときから一度も休むことなく私は薬を飲み、今も尚飲み続けている。頭の中に掛かったもやのようなものが晴れなくて、意識ははっきりしているはずなのにぼんやりする。
きっとこれは、心に巣食ってしまった寂しさが考えることを拒否しているのだと思い、私は特に気にしないようにした。
「おねーちゃん、おにーちゃんたちから何か連絡あった?」
来る度にそう訪ねてくれるユイナちゃんに今日も同じように首を振った。
白い雪が深々と音もなく降り積もっていく。色鮮やかだった私の心も真っ白にしていく。
「ごめんね、臣兄、郁斗……」
いつものように誰にも踏み荒らされていない真っ白な庭を見詰めて膝を抱え込む。
元の世界に戻ったとき、私はその選択は間違いだと思った。
私はシル・メシアに戻りたいと願った。
そして、後悔なんてしないと思った。きっと元の世界で私のことを気に掛けてくれているだろう人たちの為に、後悔なんてしてはいけないと思った。
ブラックの傍に居るとき、もしもこの関係が崩れてしまったらということも考えた上で、私はある程度覚悟もしていた。王都で一人で生きていくことがあるかもしれないから、きちんと手に職をつけて自分の力で立たなくてはとシュミレートしたこともある。
でも、それがまさかこんなに早く来るなんて思っていなかった。
―― ……私は誰にも必要とされない子で、私は一人きり、誰も私を……。
「マシロさん」
急に掛かった声に私は顔を上げると、肩に暖かいストールが掛かった。冷え切っていた身体がじわりと熱帯びる。
「折角怪我が治ったのに、次は病人になってしまいますよ」
そっと差し出された手に、私はそっと手を伸ばす。手のひらが重なるときゅっと握り締めて一息に立ち上がらせてくれる華奢に見えるのに力強い腕。見上げる先はいつもの笑顔だ。
「泣いていたんですか?」
「え……いえ、泣いては、いません」
確認の為目じりを拭ってみる。
私は泣いてなんていない。
大丈夫ですよと、口角を引き上げて見上げると、レニさんは悲しそうに眉を寄せて私の頬を撫でる。
「可哀想な子」
きゅっと心臓が縮む。
「遠い月からたった一人で落ちてきたのに、誰にも必要とされない悲しい子」
レニさんの静かで優しい慈愛に満ちた声が私の心に積もっていく。
「愛したものには裏切られ、その身は引き裂かれた」
彼は私しか愛せないといった。
私しか必要ないと……信じているのに、信じていたのに。
心が悲鳴を上げる。
痛くて痛くて、心から何かが溢れ出てくるようで、私は必死に胸元を押さえつける。
「マシロは哀れな子。貴方は彼らを必要とするのに声は届かない。彼らは貴方を必要としない」
私は必要のない子……たった一人でこの世界に残されて、たった一人で生きていく。哀れな子。
「そんな、こと、ない」
目が離せない。
違うと否定しこの場から走り去れば良いのに、私に枷はもうないはずなのに逃げ出せない。
「誰も……来ませんね……」
そう哀しげに締め括られ、はらはらと私の頬の上を涙の粒が滑り降りた。
「可哀想な子」
繰り返され、大きな両の手が私の頬を拭っていく。
「マシロ、助けてください。私たちには貴方が必要なのです。貴方でなくてはならないのです」
「私」
レニさんの手のひらが私の頬を包み顔を固定する。もう、彼の瞳から逃げられない。もう、誰も私を必要としない、この世界で、彼はこの場所は私を必要とする。
「何が出来るんですか?」
あれ……? おかしいな。
シゼは、レニさんの何に気をつけろといっていただろう?
記憶がどんどん曖昧になる。
まあ、良いか。
そのシゼだって私のことなんて必要としない。最初から私を嫌っていた。今も、ずっと嫌っている。
―― ……僕は貴方のような人嫌いです。
ああ、何も今それを思い出さなくても……きりきりとお腹の裏側辺りが傷む。
「魂に種を孕まない。唯一の存在。私たちを美しいときへと導く神使い。貴方はただ在るだけで良い。それだけで、私たちには大きな救いとなり人々の助けとなる」
本当に、それだけで私は誰かの役に立つのだろうか?
でも、もう、誰にも必要とされなくなった私。居場所を失ってしまった私。それなのに私はここに居て良いのかな?
遅疑逡巡してしまう私の視界は、衣擦れの音と共に覆われた。
とくん、とくんっと優しい音が伝わってくる。暖かな血の流れを感じる。一人きりの私に居場所を与えてくれる。
私は何も持っては居ないのに。
そんな私を必要としてくれる人。
心に悲しみが降り積もり、孤独が支配して、何もない闇にあった私への光。頭の中の靄がより一層濃くなり、私の思考は閉ざされていく。
「聖女となり、私たちを導いてください」
私を求めるもの、孤独を払うもの、私は……私は……。
「―― ……はい」
今日も雪は降り続いていて、もう止むことはないんじゃないかとそう思った。