第二十二話:堕ちた月(1)
「おねーちゃん。おねーちゃん……」
夢……瞼が重い。
それでも何とか持ち上げるとうっすらと見覚えのない天井が映る。きゅっと手のひらに圧迫感がありか細い声が届く。郁斗の声はいつの間にか女の子の声になってると思ったら……ユイナちゃんだ。
今度こそはっきりと目を覚まして、起き上がろうとしたら全身に激痛が走った。
「お姉ちゃんっ! 起きた!!」
ぎゅっと私の手を掴んだまま立ち上がったユイナちゃんの動きに、また身体が悲鳴を上げる。激痛に眉を寄せるとユイナちゃんが慌てて、握っていた手をそっとベッドに戻し私の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? おねーちゃん」
「ユイナ、ちゃん……いた、い、とこ、ない?」
声が掠れる。
寝起きだからだろうけど……情けない声だ。私の言葉にユイナちゃんは「え?」と零したあと、大丈夫だよと頷く。良かった……ほっと肩の荷が一つ下りた気がする。
「ハク、アは、いる?」
ユイナちゃんは大きな瞳を瞬かせてハクア……と繰り返したあと悲しそうに首を振った。
「お姉ちゃんの連れてたワンちゃんだよね? ユイナ、見てないの。ごめんなさい、今まで忘れてた」
「い、よ」
物凄く申し訳なさそうに肩を落としたユイナちゃんの頭を何とか自由になるほうの手で撫でた。はぁ……自分の吐き出す息が熱い。
頭が重い鈍く痛い。
身体は、もう良く分からない。
「お姉ちゃん、ずっと寝たままだったの。三日経ったんだよ。ずっと眠ってて、夢見てたみたい。怖い夢?」
心配そうに問い掛けてくるユイナちゃんに何とか笑顔は作れたかな?
「優しい、夢だよ……」
優しくて懐かしい夢だ。
私はゆっくりと重たい瞼を閉じた。それとほぼ同時に聞き覚えのある声が気遣わしげに掛かる。
「ユイナ、目を覚ましたら直ぐに知らせるようにいって置きましたよ? 今はまだ、マシロさんに無理をさせてはいけません」
ユイナちゃんはその声に立ち上がり「ごめんなさい」と短く詫びて訪問者と入れ替わるように立ち去った。
「レニさん」
視界に入った姿に身体を起こそうと思ったけれど無理だった。
レニさんはそんな私に苦笑して「少しだけ起こしますね」といってそっと私の背に腕を通し持ち上げてくれた。ずきりっと肩と腕の傷が痛み顔を顰めたがなんとか我慢は出来そうだ。
「喉が嗄れていますね。お辛いでしょう?」
入ったときにサイドテーブルに置いたのだろうゴブレットをそっと私に握らせて「飲んでください」と促す。身体を支えてくれているのはこの為だろうけど、ちょっと近い。そんなことを考えてしまったのを躊躇っていると思ったのか中身を説明してくれた。
「化膿止めと熱冷ましです。変なものは入っていませんよ」
「そんなこと疑ってませんよ」
ちびりと喉を潤すと少しだけ声を出すのが楽になった。そのままゴブレットの中身を飲み干した。美味しくはないがそんなに味はない。
「傷の消毒をしますから、こちらに背を預けてください」
傍にあったクッションを枕元に重ねてレニさんはそっと腕を抜いた。重心が移るとき痛みはあったけど我慢出来ないほどではない。
「包帯解きますけれど、あまり見ないほうが良いかもしれません」
「平気です」
きっぱりとそういった私にレニさんは、そうですかとそれ以上は止めなかった。片方の袖を抜き、肌を晒すと少し寒いような気もする。するすると腕の包帯が取り除かれると最初にハクアに出来ていた傷を思い出す。
左腕の肘から手首にかけて大きく裂けていたのだろう。綺麗に縫合してあるもののまだ傷跡は痛々しくて、ちょっと刺激があっただけでも指すような痛みが走る。
奥歯をぎゅっと噛み締めて我慢していたもののじわりと涙が浮かんでしまう。
「傷跡は残りそうなら治癒師の方に頼んで消していただきましょう。というか、ほぼ確実に残りますね……ですが、運は良かったのだと思いますよ」
これだけ深く抉られていて一体どの辺りが良かったというのだろう? 苦悶の表情を取り除けないまま、私はレニさんの話の続きを待った。レニさんは手際良く消毒を終えて綺麗に包帯を巻き終えると、肩口の包帯に触れる。少し抵抗があって肩を強張らせたが「すみません」と短く謝られたらそれ以上の抵抗は出来ない。
私は怪我人だ。
「本来ならマシロさんの首は飛んでいたかも知れない。でも首元に何かされていたのではないですか? それが引っかかって深い傷には至りませんでした」
いわれて私はそっと無傷な右手で喉元に触れる。
縫合の必要もないくらい浅い引っ掻き傷が残っている。エミルに貰ったネックレスの犠牲で私は助かったわけで……あれはやはり私の為にあったといえるのかな? その隣はやはり深い傷で、正直見たくない感じの痕になっているだろう。
怖いので触るのは控えた。
「あの、ユイナちゃんにも聞いたんですけど、ユイナちゃんに怪我はないですか?」
「ええ、貴方のお陰で……」
「良かったです……それから、仔犬を見ませんでしたか? 私の傍に倒れていなかったかと思うんですけど」
「犬……ですか?見ていませんね。私が駆けつけたときにはマシロさんが倒れていただけでした」
きっぱりとそういいきったレニさんに、ある種の違和感を感じながらも私は「そうですか」と頷くしかない。
でも、本当に居なかったのなら、ハクアは無事に逃げてくれたのかも知れない。そうだったら良いのになと思った私が服を調えるのを手伝ってくれながらレニさんは、ふふっと堪えきれないという笑いを零した。
「―― ……どうか、しましたか?」
訪ねると軽く首を振りベッドの横に置いてあった、さっきまでユイナちゃんが座っていたんだろうなという椅子に座り直すとにっこりと優しい笑みを浮かべてくれる。
「マシロさんは、他人のことばかり気にするのだなと思いまして……今一番苦しく辛いのはマシロさんではないですか? 傷からくる熱も下がっていないですし、傷自体まだ塞がっていないので僅かな震動でも激しい痛みが伴うはずです。それを嘆き己の身をあんじるのが先ではないですか?」
「……はあ、そんなもんでしょうか?」
いまいちレニさんのツボが良くわらかなくて、曖昧に答えるとレニさんは益々肩を揺らした。
「あ、あの……それより、私すっかりお世話になってしまってるみたいなので、その失礼できたら……」
楽しそうに笑っていたレニさんにそう切り出すと、レニさんはぴたりと笑いを止めて「それは無理です」と首を振った。えっ?! と驚く私の背中から詰めたクッションを抜き取りつつ私の身体を支えて話を続ける。
「良く考えなくても今の状態をお分かりになるでしょう? マシロさんがご自身で戻ろうとなさるのは自殺行為です。兎に角、熱が下がって傷が塞がるまでは絶対安静です」
「でも……その……い、っ……」
ゆっくりとベッドに戻されただけなのに痛みが身体中に響く。
思わず眉を顰めた私にレニさんは本当に申し訳なさそうな顔をする。レニさんが私を慎重に扱ってくれたのは分かる。それなのに我慢出来ない私の方が悪いと思う。だからこんな状態でといわれるのももちろん分かる。
きゅ……っと唇を噛み締めた私にレニさんは細く長く溜息を零し「分かりました」と頷いた。
「では、こうしましょう。図書館にこちらから使いを出します。そして、迎えに来ていただいたらどうでしょう? 私としましてはやはりあと二三日は安静にしていて欲しいのでその旨も添えさせていただきますが……」
それで宜しいでしょうか? と重ねられ、私は胸の閊えが取れたようにほっとして「はい」と頷いた。その様子にレニさんも穏やかな笑みに戻った。
「では何か食べられそうなものを用意してきますからそれまでお休みくださいね。大丈夫、直ぐに眠れますよ……ゆっくり休んでください」
レニさんの言葉を最後まで聞くことなく私はうとうとと再び眠りに落ちた。
次に私が目を覚ますと夜だった。
頭がぼんやりするのはきっと眠り過ぎた所為だと思う。
ベッドサイドに置かれていたランプには魔法石が灯っている。物音一つ生き物の気配一つ感じない、真っ白で、真っ暗な空間。外から入り込んでくる日の光から時間が過ぎ行くのは分かるのに、時間の感覚が狂って行くような気がする。
変だなと思いつつ、無傷な右腕を突っ張って身体を起こしてみる。さっき起きたときほどの痛みはない。頭も痛みは減ったと思う。きっと薬が効いたんだろう。
「目が覚めましたか?」
「え、あ……レニさん……こんな時間にすみません」
私が目を覚ます時間が分かっていたように、かなり良いタイミングだ。レニさんはトレイに食事と薬湯を載せて運んできてくれていた。
「食欲は余りないかもしれませんが、もう彼是何も口にしていません。少しでも食べてくださいね」
と微笑んで傍に座ったレニさんはそっとトレイの中身を掬って私に差し出してくれる。
ええっと……。
思わず戸惑った私にレニさんは「おや」と少し驚いたような声を上げたあと「そうでした」と苦笑して僅かに頬を赤らめると、お皿にスプーンを戻しトレイを私の膝の上に乗せてくれた。
「すみません、子どもが多いのでつい……」
「あ、ああ……そう、ですよね。うん。小さい子は、あーんすると喜びますよね」
はははと私も乾いた笑いを零して、折角持ってきてもらったので食事を口にする。通常よりもっとずっと柔らかい感じのリゾットだ。
熱の所為で味覚がぼやけていて正直味は余り分からないけれど、きっと美味しいのだろう。
「これ、レニさんが作ったんですか?」
「え? ああ、はい。夜は特に他に用を足すものがおりませんから、私が全て面倒を見ます。とはいっても子どもたちは子どもたち同士で面倒を見合っていますけれどね? 私は唯居るだけの監督みたいなものです」
ふふっと優しい笑いを零すレニさんに釣られて私も微笑む。
食事をする間、レニさんは他愛もない話に付き合ってくれた。日々子どもに接している所為か、レニさんの物腰はとても柔らかくてほっと安心するものだ。
済んだトレイをサイドテーブルに避けてくれたレニさんは昼間と同じ薬湯を私に手渡してくれる。
「ご馳走さまでした……あの、薬もわざわざすみません……薬湯って作るの面倒だと思います……でも効きも良くて、その、大分痛みが引きました。まだちょっと、頭はぼーっとするんですけど」
苦笑しつつ、私は薬湯に口をつける。おずおずと口にした私にレニさんはお気になさらずにと微笑んでくれる。
「寝たきりになっていましたし、太陽の恩恵も殆ど受けていませんから頭の中がぼんやりとしているのでしょう。明日は日の高いうちに目が覚めると良いですね」
やんわりとそう告げられて私は本当にそうだなと思いつつ頷いて、空になったゴブレットをレニさんに手渡すとゆっくりとベッドに身体を倒した。直ぐに緩い眠気が襲ってきて「お休みなさい」と声が掛かると深い眠りへと落ちていく。