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マシロの詰問から逃れたブラックは曖昧に微笑んで書机に着く。そして、机上に乳鉢を出すと手にしていた種をころころと転がした。
「ブラックは何してるの?」
「代金が一つ分しか用意できないということですので、掛け合わせているんですよ。必要なのでしょう?」
「……おぉ」
「素養は複雑で面倒なので、直接ご依頼いただかない限り滅多にやらないですけど……これも種屋の仕事です」
一つずつ丁寧に擦り潰し、一摘みずつ手のひらに乗せる。
「ここに、白月の涙を一滴……」
引き出しから取り出した小瓶を器用に片手で開けて、スポイトで手のひらに一滴……室内の明かりで七色に輝くと、小さくぽんっと光が弾けた。残ったのは、一粒の種だ。
「さぁ、出来上がりです」
面倒という割には直ぐだな。と思ったのを感じたのか「これでも、巧緻さを必要とする作業なのです」と不機嫌そうな声を出す。
お茶を机まで運んできたマシロと入れ違いに、ブラックは席を立つとアリシアの元へ出来立ての種を運び
「どうせ飲むなら早い方が良いですよ」
おずおずと手を出したアリシアの手のひらに乗せて、水の入ったグラスをローテーブルに出現させた。アリシアは、大きく一つ深呼吸。グラスを握りしめ、種を口元に……
「白月の涙? 綺麗ね」
「触ってはいけません。有毒です」
「んんっ!」
―― ……毒っ?!
ごくん。
机上の小瓶を手に取ったマシロから、小瓶を取り上げつつ口にした台詞に、アリシアは口に含んだ種を飲み込んで良いのか吐き出すか……判断する前に……飲み下してしまった。
喉元を通り過ぎ……食道を通って……通って……。
ぐらり……と、アリシアの身体が弧を描きソファに落ちた。
「ブ、ブラック!」
「大丈夫ですよ。これは聖域にある例の白木の樹液で、とても貴重な猛毒というだけです。私の手によって中和して初めて効果を発揮する。私はきちんと仕事をしたでしょう? 毒という単語に驚いただけですよ」
「……なら、良いんだけど」
ほっと胸を撫でおろした風のマシロに、ブラックは薄く微笑んで肩を竦めた。
「客室へ寝かせておきましょう。どうせもう、本日王都に戻るような足はありませんから」
「うん、ありがとう」
了承を得るより早く、表情のない傀儡に抱き上げられアリシアは部屋を出た。その様子をマシロは複雑な思いで見送る。
「後先になりましたが書類を作るので……」
「ブラック」
「……はい?」
「今日はありがとう……無理させた、かな?」
「連れだって来た時点でそのつもりだったのでしょう? 大丈夫。多少緩慢な対応はしましたが、それだけです」
いって微笑み手を差し出したブラックの手のひらに頬を寄せた。優しく頬を撫でる仕草にマシロは心地よさ気に双眸を伏せ口元を緩める。そして、手に手を重ねると絡めとりその指先に口付けて
「私、アリシアの様子見てくるね」
離れた。
踵を返し、扉に手をかけたマシロに「言う必要ありません」口にして続ける。
「彼女はどう見積もっても大した役も持たない一般人です。その彼らに理解を求める必要はありません。私は気にしませんよ?」
「私も……私も別に万人に理解を求めるつもりはないし吹聴するつもりもない、でも―― ……うん。ありがとう」
そういったマシロは笑っていたのか哀し気にしていたのか分からない。
音もなく閉じてしまった扉を見つめて、ブラックは一つ息を吐く。空に浮かんだ二つ月は、ただ静かにその背を照らしていた。
* * *
どう……すれば良いのかな……。
ベッドの奥側に見える月を見詰め、静かに横たわるアリシアへと視線を移し、短く唸ったあと彼女の眠る寝台の端に突っ伏した。
はぁ……私が知らさないと決めてしまえば……ブラックは今日出会った記憶さえも差し替えてくれるかもしれない。
ブラックがいう通り、アリシアは一般人だ。逆にいうなら私になんて関わらない方がきっと幸せでいられるくらい普通の子で……。
「なんで……そんなに難しい顔しているの?」
思案に耽っていたマシロの頭に、ぽすりと手が乗り慰めるように撫でていく。そして、起きあがったアリシアの動きに併せてベッドが沈む。
「アリシア……」
「直ぐに、何か変わったりしないのね」
「うん……私も未だによく分からない」
胸に手を当て神妙な表情でそういったアリシアは、顔を上げ、マシロと共にふふっと笑い合い肩を竦めた。
「ここどこ?」
「種屋のゲストルームだよ」
夜の帳はとうに降りた。
そう……種屋。アリシアは苦々しく呟いたあと、小難しい顔をしたまま続けた。
「貴方、少し無謀すぎるわ……。確かにあたしが思っていたより、ここは恐ろしくはなかったけど……いつ、どう豹変するかなんて分からないのよ?」
「……あー……ぇと、うん……大丈夫、だよ」
「貴方は簡単に心許しすぎるわ」
「そ、それより、今夜どうする? このまま泊めてもらう?」
「町に宿を取りましょう……その方がきっと安全だわ」
アリシアの台詞に俯いたマシロは、きゅっと唇を引き結ぶ。
やっぱり……駄目だ。
「マシロ? 大丈夫? 何かあったの?」
マシロを気遣うように肩に手が置かれ、そっと撫でた。その暖かさに、マシロはふるふると横に首を振る。横に振って……意を決して言葉を紡いだ――
「……彼を、怖がらないで……」
「ぇ?」
「アリシア……お願い……」
顔を上げ、泣き出しそうな笑顔でそういったマシロに……気が付いてしまった。気が付いてしまったら……もう……
「……マシロ……貴方、まさか……」
「―― ……うん」
「嘘、でしょう。そんな、……じゃあ、貴方、どんなつも、り、で……此処まで着いてきたの? 貴方、何者……なの……?」
「……私は、私だよ……ブラックも、ブラック、で……彼は普通の人たちにまで、理由もなく害さないよ」
切々と言葉を繋いだマシロを見るアリシアの瞳が恐怖の色を移し、逃げるように顔を逸らした。
「……して……一人、にして……」
微かに震える声で告げるアリシアに掛ける言葉を失ったマシロは、静かに立ち上がり部屋を出る。
分かってる。分かってた。
この世界の人にとって、種屋は闇そのものであり……それに組するものは同じく嫌悪や畏怖の対象になること。それが、一般認識だ。
でも、やはり堪える。いつもキラキラとしたアリシアの瞳が恐怖に揺れ、自分を見詰める。空色の瞳は陰って藍色に深まり……拒絶の色を見せた。
「アリシア……ごめんね」
背にした扉に一言詫びて、マシロは私室へと戻った。屋敷の廊下がこんなに長いと感じたのは初めてだ――。
* * *
新鮮な空気を求めて窓を開けると、どこかで犬でも飼っているのか遠吠えする声が聞こえる。
家々の明かりは殆ど灯っておらず道沿いにもあまり街灯がない。夜の闇が支配する町。王都暮らしが長いアリシアにとって、閑散とした街並みはうら寂しく感じた。
短く、はぁ……と息を吐いたアリシアに、コンコンと訪問者を告げる音が届く。ぎくりと肩を強張らせたアリシアの返事など特に気にすることもなく、開いた扉からはブラックが入室し物憂いアリシアに歩み寄った。
「明かりくらい点けたらどうですか」
ブラックがいうと同時に室内が明るくなる。
「こちら、今回の売買契約書になります。普段ならお渡しする前に交わすのですが……順番が前後しました」
サインして下さい。と単調に口にして、羊皮紙とペンを差し出した。
「……どうして」
「はい?」
「どうして、あたしが王子のことを引き合いに出しただけで良しとしたの?」
受け取った契約書に目を落とす。不備などあるわけないし、実際あってもアリシアには良く分からない。
「……はぁ?……あぁ……愚問ですよ。現存する王子は沢山いますが、貴方が出会うことが可能な王子といえばエミリオぐらいなものでしょう。そして、彼が貴方に恩を感じるとすればマシロが絡んでいる」
そこまで一息に口にすると、ちらりとアリシアを見てやや不愉快そうに続けた。
「マシロが関係していて、王子が粗野にするわけない。必ず応じますよ」
「……王子は、マシロのこと好きですものね」
「ええ、そうですね」
事もなく同意したブラックに今度はアリシアが眉を寄せる。
「ならどうして貴方がマシロを……」
最後まで口にすることが出来ず、アリシアは唇を引き結んで飲み込んだ。逆鱗に触れることが怖かった、豹変するのではと距離を取った。けれど、アリシアの思いに反してブラックはほんの少し愁いを帯びたような笑みを浮かべる。
「さあ、どうしてでしょう。それはマシロに聞いて下さい。選んだのは私ではなく、マシロです。そもそも私がどう語ろうとも貴方はそれを受け入れることが出来ないし、納得も出来ないでしょう。話すだけ無駄です」
分かったら、さっさとサインをして下さい。この話は終わりとばかりにそう続け、手を出したブラックに、慌ててアリシアは記名個所に名を書き綴りその手に載せた。
その名を確認し首肯すると、くるくると手の中に丸める。そして時の間瞑目し
「少なくとも……マシロはそんな目で私を見ません」
扉の方へと歩きだしたブラックの言葉に、アリシアは自らの腕で肩を抱き身体を固くした。そんなアリシアを肩越しに振り返り、ブラックは酷薄な笑みを浮かべ瞳を細める。
「けれど、貴方が間違っているわけではない。力もない、ただの役なしの人間は私に恐怖しか感じないでしょう? それが『種屋』ですからね。……ただ、余りマシロを傷つけないでいただきたい。マシロは貴方を害しましたか? 私が思うに、マシロは貴方が余程好きなようですけど……」
では、おやすみなさい。と、締めくくられたドアを見つめ静寂が戻ってきた室内にアリシアの長嘆息が虚しく響いた。
―― ……あの子が、害するわけないじゃない……。
つっと夜空へと視線を走らせる。暗闇を照らす二つ月を眺めた。月を見上げるなんて、いつぶりだろう。
「好かれている……のかしら?」
マシロは、何ていってた? 何を悩んでいた? 何をあたしに求めたのかしら……。
綺麗に磨きあげられている窓ガラスに、こつりと頭を預け思案する。
恋人に捨てられそうだといって泣いて。誤解だったことに安堵して……そして、あたしに……
……――怖がらないで
と、願った。
どうして、あたしに打ち明けたの? 隠し通そうとすれば出来たはず。着いてくる必要だってなかった。理由なんて幾らでもあったはずだ。でも、それをやらなかった。あたしが、恐怖に負けて吹聴してしまえば――口封じに奔走するかもしれないけれど――きっともうマシロが町で今のように働くことは出来なくなる。
あの子にとってデメリットしかないはずなのに……一緒に来てくれて、大丈夫だと手を握っていてくれて……ずっと、心配してくれていた。
繋いだ手の温もりを思い出すように、アリシアはそっと左手を包み込み胸に抱き顎を落とした。
夜風がそっと頬を撫でていく――