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* * *
ここが王都であったなら豪奢な屋敷も溶け込んで然りだというのに、町の中のどの建物とも違う。広さから考えれば多くの使用人の気配も物音も屋敷のあちこちから聞こえてきても良い。けれど、ここには一人の獣族が居るだけで時折物騒な音がするが、それすら本来の静寂を破るほどでもない。
異質……異界の様にも感じる屋敷。美しく閑雅であるのにそこを訪れるものの目的故か独特の雰囲気を孕んでいる。
黄昏時の色が今も妖しく屋敷を包んでいた。
「これはまた、難しいことを持ち掛けられそうですねぇ……」
その雰囲気に気圧されるように玄関先で立ち止まっている人影を認めて、窓際に立った黒猫はカーテンに手をかけ本日最後の訪問者に口角を引き上げた。
誰も聞くことのない独り言。その表情には、僅かばかりの喜色が浮かんでいた。
「―― ……さて、丁重にお迎えしないといけませんね」
西日を遮り、魔法灯を灯す。柔らかな明かりで室内を照らし、黒猫は愉快そうに尻尾を揺らした。
ぎぎぃぃ……。
立て付けが悪いわけでもないのに、わざわざ扉を軋ませるのは一種の効果音だろうか? マシロはいつもの疑問を胸のうちに留め、訪問客を迎え入れるように開いた扉の奥を覗き込み胸を撫でおろした。
良かった。飛びかかってくる黒猫はいな……
「にゃあ」
居たっ?!
実に猫らしく鳴いたブラックはマシロの足元を八の字に歩いた後、先導するように屋敷の中へと進み中央階段の中腹でこちらを振り返る。
「……猫、飼ってるのかしら?」
「案内してくれてるんじゃないかな」
行こう。とアリシアの手を引いてマシロはブラックに続く。
直ぐ隣を歩いていたアリシアが半歩ほど後ろに下がり、繋いだ手が汗ばむ。大丈夫だと念を押したところで、どうしようもないだろう。マシロは先導することで少しでも緊張が溶けるよう願うしかなかった。
「ノック、した方が良いのではないかしら」
無遠慮にドアノブに手をかけたマシロの斜め後ろからアリシアは手を伸ばし、扉をコンコンと打ちつける。返事はないだろうと思ったのに
「どうぞ入ってください」
あった。真横から。
突然現れた獣族に目で見て分かるほどアリシアの肩がびくりと跳ね上がった。それを気に止めることなくノブを握ったマシロの手に手を重ねて扉を開き、先に部屋へ足を進めると二人をソファへと促す。
「貴方が……種屋さん、ですか?」
「ええ、私がここの店主でブラックといいますが、まあ、貴方々風にいえば『闇猫』でしょうね。呼び名は何でも結構ですよ」
決まり文句の様に口にして、何でも良いといって『猫男』と名付けるような怖いもの知らずは可愛い恋人ぐらいのものだ。ブラックはとても昔のことの様な、しかしつい先日の様な懐かしい気持ちを胸に愛しいものを盗み見る。自分が無粋であることは良く分かっている。だから、今はきっとマシロの対応が確認できるまでは秘するのが良いだろう。
恐る恐る腰を下ろしたアリシアに続きマシロもちょこんと座ったところで
「お茶でも淹れましょうか?」
「け、結構です」
答えたのはアリシアだ。
「そうですか? 美味しいお茶が届いたところだったのですが……まぁ、良いでしょう」
いって二人の正面へと腰を下ろし、順番に二人を見て「用件。聞きましょうか?」と切り出し、こほんっと一つ咳払い。
「取って食ったりしませんから、手、解いても構いませんよ」
どうやらお気に召さなかったようだ。
マシロは心の中だけで苦笑し、アリシアは一度だけ握った手に力を込めた後……手を解いて膝へと並べた。
そして、大きく一つ深呼吸した後
「あたし……薬師の種が欲しいんです。ですが、幾ら位なのか見当もつかなくて」
「今も、その素養はお持ちでしょう? 必要というのであれば用意しますが……今以上となると、値は張りますよ。後払いや、分割など対応はしません。用意できるまでは……」
淡々としたブラックの言葉の合間に、ごほんっと一つ咳払いが入る。もちろん、マシロだ。ぴくりとブラックの耳が反応する。
「欲しいには欲しいだけの理由があるんだし、そのくらい聞いてくれても良いでしょう……?」
「……聞いたところで、値段は変わりませんし、その様なことに左右されることは…………あぁー……」
刹那天井を仰いだブラックは、はぁと息を吐き「取り合えず、聞きましょうか」と続けてアリシアを見た。驚くほど特出した素養を持っているわけでもない希少性の低い一般人であるのに……よくもまぁ最強の味方を連れてきたものだ。ブラックは内心ほくそ笑んだ。
「あたしは……家を立て直したいんです」
「ほぅ……家、というと?」
そういって縋ってくるものも多い。
カナイたちがそれに近いものだった。聞き入れはしなかったけれど……
「うちは大きなハーブ園を生業にしていました。王都から少し離れたところですが……」
「あぁ、覚えていますよ。あのハーブ園は良かったですね。何より種類が豊富でしたし、貴重なものも扱っていた」
「知ってるの?」
「ええ、私は直接知りませんが……先代あたりはよく取引していたようですよ?」
アリシアは、実家を種屋店主が知っていたことも、自然と会話に加わっていたマシロにも驚きつつ、双方を見て首を傾げた。知り合いというのは分かる。マシロも種を買った一人なのだから。
「けれども、現在は見る影もありません。先々代あたりから素養が見いだされなくなったんです。それなのに、それを放置して経営を続けた為、あっさり朽ちていきました。素養を軽視した結果、ですね。家族経営の場合、他者、この場合素養を持っているものの話ですが、それを入れたがらない。種を求めないことも……愚かしいことです」
「家族を大事にしたかったんでしょう? 不思議ではないと思うけど」
「……その結果がこれです。愚かと言わずに何というのか……マシロは甘い……と、それはそれとして……。あの荒れ地を元の姿に戻すだけであれば術師にでも頼めば良い。地に力を注いでもらえば多少持つでしょう。問題は、維持管理……」
いって、じ……っとアリシアを見つめた後、短く嘆息して首を振った。
「種、一つでは足りそうにないですね」
その一言に、アリシアの表情が歪み膝に置いた手がぎゅっとスカートを握りしめ皺を作った。
「なんとかならないの? 一つだけでも大変なのにっ! そんな二つも三つもぽんぽん買えないよ」
「マ、マシロっ!」
種屋に食ってかかったマシロを慌てて遮る。彼女が無謀なのは周知だ。でも、相手が悪い。
「でも、アリシア……」
堪えるように首を振るアリシアに、マシロはまだ納得できないとばかりに眉を寄せた。
「……一つなら」
「え?」
「一つなら、どうにかなりそうなのですか?」
ブラックの言葉に二人は顔を見合わせ、声を詰める。その様子にブラックは肩を竦めると「話になりません」呆れたように吐き出した。
「―― ……」
「…… ――」
無言が痛い。振り子時計の振り子の音までうるさく聞こえる。
アリシアは、次の手、別の切り口を考えているのか落ち着かなげにそわそわとしている。ブラックはそれを暫く黙って見ていたが、このままでは交渉は決裂。自分は構わないが、マシロはうんとはいわないだろう。何より……目の前の交渉相手にはまだ口にしていないことがありそうだ……
「マシロ」
その沈黙を破るようにブラックに名前を呼ばれて、マシロは続きを促すように見詰め瞬きする。ブラックはその顔に笑みを添えると
「お茶をお願いします。王宮から届いた一級品ですよ」
「でも……」
「淹れてきてください」
暗に出ていけといわれていることが察せない程鈍くはない。しかし、アリシアには隣にいると約束した。違えるのは嫌だ……。
「ありがとう、マシロ。大丈夫だから、お願い……」
「……う、……うん」
アリシアに促されて渋々立ち上がったマシロは、そのまま後ろ髪引かれつつ部屋を出た。
その足音が遠ざかるのを待って、アリシアは
「宛……あります」
遅疑逡巡しながらも、ポツと答えた。
ブラックは確信を得たことに片方の口角を上げ冷たく瞳を細め静かに告げ問い掛ける。
「売った恩を回収することを気にすることありませんよ。後々問題にされるのは嫌なので……一応聞きますが、その宛はどこですか?」
「王子、です……」
ブラックを見ることなく、囁くような声で続けたアリシアにブラックは訳知り顔で「なるほど」と頷いた。
「では、商談成立ですね。請求はそちらにしましょう。返済は、件の王子へ行ってください」
立ち上がったブラックは、背にしていた書棚を展開し種棚を物色し始める。これと……これと……これ……ぶつぶつと口にしつつ、一つ二つ三つ瓶を取り出す。
アリシアはどこか楽しげなその後ろ姿を、ちらと見た後肘を膝に押しつけ俯いた顔を手で覆った。いい寄って来るものを唆すことも誑かすことにも、これまで一度も後ろめたさなど感じたことはなかった。でも……でも……今回だけは違う。
向けられた好意はアリシアではなく……彼女の”友達”だ。それを利用しなくてはいけない。そうするしかない今の自分が余りにも……
―― ……情けない。情けない、情けない。
悔しくて、情けなくて……けれど、成さなくてはいけなくて……強く強く目頭を押さえつける。
『君も何かあるなら相談に乗るよ』
『依頼にはそれ相応の対価が必要となるのは当然の事だし――』
それらを必要ないと言い切ったのに……今更。しかもお金の無心をしなくてはいけないなんて……。本当に、そんなつもり……なかったのに……なかった、のに……。
「面倒なので滅多にやらないのですが……っと、泣いているのですか? やめてください。さっさと涙を引っ込めて下さい」
「……っは、ぃ」
「私が虐めたみたいじゃないですか……これでも貴方は幸運なのですよ? どこにそんな必要があるのですか」
「ごめ、ん……なさぃ……」
掠れるアリシアの謝罪に被るように陶器が割れる音がする。
「ブラックっ!!」
「……わ、私は虐めていません……!」
「アリシアが泣いてるのに、何もなかったなんてことないでしょっ!」
「な、何もありません。ありませんよっ。契約が成立しただけです」
部屋へ押して戻ったティーワゴンをそのままに種屋に詰め寄るマシロの腕をアリシアは捕まえて、大ざっぱに顔を拭って大丈夫だと引っ張った。
「本当に? 本当に何か理不尽なこと言われたりしてない?」
「してないわ。支払いを分割にして貰っただけよ」
「……本当?」
不安げなマシロにアリシアは頷く。マシロはそんなアリシアとブラックを順番に見て
「そっか……それなら良かった……良かった、んだよね……」
目的は達せられたはずなのに、マシロの表情は浮かない。けれど、それを振り払うように首を振ると、努めてにこりと微笑んだ。
「じゃあ、お茶にしようか」
一つ割っちゃったかな? ぶつぶついいつつティーワゴンに戻るマシロ。アリシアは、上げた腰を下ろしてソファに深く体を沈めた。