第十話:飼い主の気持ち
「助けなきゃ……」
一呼吸一呼吸浅く短いが、まだ息がある。
アルファの後ろから飛び出そうとして、私は「待って」と腕を捕まれた。
「駄目だよ。手負いの獣に近づくなんて!」
「でも、近づかないと怪我を見られないし、治療も出来ない」
私たちの声に気がついたのか、うー……と低く唸るような声をあげ、苦しそうに片方の瞼だけ持ち上げてこちらを見た白銀狼に、私はある種の確信を得た。
「大丈夫だよ。この子は襲い掛かったりしないし、それにもうそんな力残ってない」
見てるだけなんて嫌だ。と、重ねた私にアルファは嘆息したけど腕を解いてくれた。
私は、ありがとうと小さくお礼をいって、負傷している白銀狼の傍で膝をついた。
じわりとスカートの裾に血が滲む。
そっと触れると、一瞬びくりと身体を強張らせたものの、それ以上の抵抗はしない。
そのことに改めて胸を撫で下ろし、深い毛並みをそっと分けて傷の具合を見てみる。出血は大分収まっているようだけれど、深いものと浅いもの、合わせて三本ある傷跡は生々しく、じわじわと血液が流れ出ている。
ハンカチを出したけど、対象が大き過ぎてこれでは到底巻けない。やや迷った末スカートに手を掛けた私にアルファの手が掛かる。
「マシロちゃん、止めて」
「でも」
「良いから」
アルファは私の手を押し留めると、自分の上着を脱いで躊躇することなくシャツの袖を、びっと破き腕から抜き取ると筒になった部分を開いて広い一枚の布にした。
「これで止血してあげて」
「ありがとう、アルファ」
受け取ると私は手早く足の付け根からぎゅっと固く縛る。
小さな声を漏らし、刹那苦しそうな息遣いを見せたが直ぐに収まった。
―― ……これじゃ助からない……
迷ってる暇はなかった。
丁度、上着を整え終わったアルファにまた止められる。
「無理っ! 無理無理無理っ! マシロちゃん、どれだけ無謀っ?! 何? 連れて帰るつもり?」
これまで見たことないくらいのアルファの慌てように、私はきょとんっとした。私は白銀狼の前足を肩に掛け何とか運べないかと思っただけなんだけど……。
「いや、もう、そんな可愛い顔してみても駄目です。確かに近いですけど、それならエミルさんとか呼んで来たほうが」
「間に合わないよ」
うーっと唸るようにそういった私と白銀狼を交互に見たアルファは「分かりましたよ」と頷いて、私を白銀狼の下から引き離すと自分が入り、よいしょ、と担いだ。
小さな声で「重いな」と一言零しただけで、アルファはそのまま普通に歩き始めた。慌てて私もその後ろを追い掛ける。
丁度、夕食時と重なったのだろう、寮棟は、がらんとしていて都合が良かった。
医務室へ運ぶのかと聞かれて、私は自分の部屋へとお願いした。
寮棟側からの出入り口では、医務室までは遠いし途中で食堂の傍も通る。誰かに見つかる可能性が高い。アルファの部屋は、カナイと同室で、もう一匹同居人は無理だろう。エミルの部屋は、期待出来ないから、私の部屋が一番だ。
最初はベッドにといったのだけど、アルファがそれは駄目だと拒否するので、床にタオルを何枚も敷いてそこに寝かせてもらった。
そっと触れるとまだ暖かいし、ゆっくりと胸が上下している。
まだ大丈夫だ。
ほっと胸を撫で下ろすとアルファは「エミルさん呼んできます」と立ち上がり部屋を出た。
私はその間に必要になるだろうお湯を準備した。
隣から話し声が聞こえて、ややして軽いノックの音とともにエミルが入ってきた。カナイの姿もあったけどアルファの姿がない。
「布や毛布……必要なものを取りに行ってくれてるよ」
歩み寄って私の隣に膝を折ったエミルの言葉にああと頷いた。
「そこどけ」
背後でこつこつと足を鳴らされ見上げると、カナイが湯を張ったタライを抱えていた。私は慌てて立ち上がるとカナイに場所を譲った。
「マシロは少し下がってて」
「でも……」
「縫合とかも必要だと思うから……ね?」
食い下がった私にエミルはやんわりと重ねる。
私は、それ以上食い下がれなくて扉辺りまで下がって壁に背中を預けた。途中でアルファが入ってきて頼まれていたものをエミルに渡すと私に歩み寄ってきた。
「僕はもう役に立たないから、着替えに一旦戻るけど、マシロちゃんも着替えたほうが良いよ」
にこにことそうアルファに告げられて、改めて私も自分の格好を眺める。
確かに、どこで大惨事に会ってきたのだろう? というような装いだ。苦笑して頷いた私にアルファは、大丈夫だから、ね? と、重ねてぽんぽんと私の肩を叩くと部屋を出ていった。
「あとは、本人の回復力次第。まぁ、白銀狼は生命力が強いし、長命だから大丈夫だと思うよ」
エミルの手際はとても良くて、どれもスムーズに運んだ。
きっとそれをいっても謙遜して受け入れられないだろうと思ったから、私は素直に有難うとだけ伝えた。ほっとすると同時にぐぅとお腹が鳴る。
私の馬鹿っ! 完全に皆に聞こえたよね。
ぱぁぁぁっと顔が熱くなる。
「あの、えっと、これは」
「お腹空いたね。遅くなったけど食堂開いてるかな? マシロは時間外常習者だからきっと待っててくれてるよ、行ってみよう」
すっとエミルが扉を開くと「僕もぺこぺこですー」と、アルファが一番に飛び出していった。
それにカナイが続き、扉の外に出てエミルが私を待ってくれているのは分かる。私は、部屋の明かりを絞って薄明かりを保つと静かに眠っている狼を見詰めた。
大丈夫だよね。戻ってきたら死んでたとかそういうの、ないよね。
「大丈夫だよ。今すぐどうとかならないと思う。彼にも目が覚めたとき食べられるように何か用意してもらってこよう?」
私の不安を察してくれたエミルに優しく促され私は頷いた。
エミルがいった通り、食堂ではおばさんが私たちが来るのを待っていてくれた。
お腹を満たして、おばさんに怪我した犬を拾ったからと食事も用意してもらってきた。カナイが「……犬」と曖昧な顔をしていたが、狼拾いましたとは流石にいえない。
アルファは一息吐いたエミルに話があるといい自室に戻った。
別に私の同席を拒まれたわけではないけれど、私はこっちが心配だったので部屋に戻った。
ベッドの脇で大きな身体を横たえている姿はとても辛そうだ。私はペットを飼ったことがないから分からないけど、飼い主ならこういうときどうして上げるんだろう? 脳裏に浮かんだ一名に頭を振り、あれは獣族でペットでは、多分ない。と打ち消した。
そっと、身体に触れると、ふー……と熱の篭った鼻息を吐く。触らないで欲しいかな? それとも撫でていて良いのかな? やや迷ったが病気や怪我をして寝ているとき、きっと私だったら誰かが傍に居て触れていてくれると安心すると思う。
だから、私はこの子から離れないことにした。
規則正しくなった寝息を聞いていると急に私も今日の疲労感に襲われる。
身体が重いし、忘れていた筋肉痛までぶり返した。こんなもの、この子に比べたら大したことないのにそれでもちょっと辛いと思ってしまうのは申し訳ない……もうし、わけ、ない、け、ど……。
「マシロ。マーシロ。起きそうにないな……」
「しっかり掴んでるから離せそうにないし、風邪とか引いちゃわないですかね?」
「馬鹿は引かないから大丈夫だろ、ほら、これでも掛けとけよ」
なんだか遠いところで失礼なことをいわれているような気がするけど、身体も重いし瞼も重い、起き上がれないから、そのままにしていたら、柔らかくて暖かなものに包まれて益々深い眠りに落ちた。
「……ん、んん?」
なんだろ? なんか、変な感じ食まれてる? こんな冗談みたいなことするのはブラックぐらいな気がするんだけど、いつの間に来たんだろ?
「ブラ……ック? ふわっ、私まだ、眠……い」
まどろみの中で目を擦り断固起きることを拒否したら……
―― ……ぺろり
鼻先を舐められた! ひっ! と、息を呑み慌てて身体を起こすと、身体の節々が悲鳴を上げる。
あいたたた。
―― ……私、床で何を……?
肩に掛かっていた毛布が落ちたのを引き上げながら、目を開けると見慣れない姿に一瞬驚いたけど、そうだった、私昨日は拾い狼しちゃったんだ。最近、良く拾いものをするよね。
「目、覚めたんだ? 傷の調子どう? 痛む?」
『大丈夫だ』
「そう、良かったね。お腹空いてない? 私、食堂のおばさんに……」
肩口に毛布を手繰り寄せ、立ち上がりつつ話を続けていてふと気が付く。
会話が成り立ってる? 一気に頭の中がクリアになった私は、床に身体を横たえて頭を持ち上げている白銀狼を見詰めた。
大きく鋭い瞳は左右の色が異なっていて凄く綺麗だ。暫らく見詰め合ったあと、私は改めて問い掛ける。
「話せるんだ?」
『私の名はハクアだ。マシロ』
「ハクア? そう、良い名前だね。じゃあ、手っ取り早いや。これから私は何をして上げれば良い?」
『私は良い。夕べ机の上に人間が何か置いて行った。確認したほうが良い』
いわれて私はいつもは中央にあるものの、ハクアの為に部屋の隅へ追いやったテーブルの上を見た。見覚えのある上品な薬入れだ。
直ぐにエミルのものだと分かる。
その下に敷いてあった二つ折りになったメモ用紙を開く。
『炎症を抑えるものです。目が覚めたら使ってください』
名前はないけど、エミルの筆跡だと思う。私はメモ用紙を丁寧に畳んだ。きっとアルファから聞いたんだと思うけど、みんなの気遣いはとても嬉しいし有難い。
『なんだ?』
「エミルだよ。ハクアの傷を手当してくれた人。他に背が高いのがカナイ、金髪の子がアルファ。皆、ハクアの為に尽力してくれたんだよ」
良かったね、と続けるとなんだか私まで嬉しい気分になって自然と顔が綻んでしまう。
窓の外を見ると、いつも起きる時間よりずっと早いみたいだったから、私はハクアに朝ごはんを用意して、暖かくしたタオルで汚れた身体を拭ってあげた。
本当はお風呂に入れて上げられたら良いんだけど、それはまだ早いだろうと思ったから。