後編
「ねぇ、マシロ」
甘い呼び声。
返事を返すのも忘れて聞き入っていると、ゆるゆると私の髪を弄んでいた手を離し、僅かに二人の間に隙間が出来る。あ、と名残惜しげな声を漏らしかけて、ぐっと飲み込めば、ブラックの両手はふわりと私の頬を包む。そしてもう一度、緩やかに私の名を呼ぶ。
「一緒に住みませんか? 私はいつもここにマシロを送るたびに、図書館なんて無くなれば良いと思います」
そっと頬を撫でながら物騒なことを真剣に口にするブラックに私は大きく瞬きをしたあと、その真摯さゆえに笑いそうになる。
「消しちゃ駄目だよ」
「分かってます……一応……」
語尾が心許ない。
ちらちらと視界の隅に入る尻尾が静かに揺れる。
余所見をした私が気に入らなかったのか、頬に触れていた指先が、つっと降りてきて顎を取る。
くっと持ち上げられて、そのまま目を閉じれば、柔らかく口付けが降りてくる。可愛らしく啄ばむような口付け。ほんのりと胸のうちが温かくなってくる。
「マシロに出会うまで、私はあまり考えることをしませんでした」
鼻先が触れる距離で、背伸びをする私が辛くないように支えてくれながら話を続ける。
「存在の意味はもちろん……この唇から紡ぎ出される言葉の意味も、あまり重要だとは思わなかった。言葉なんて、相手に要求を飲ませるためだけに必要なものだと思っていました」
……淡々とそう口にするブラックの“これまで”は、物凄く屈折している。
「先ほどの話もそうです。生まれだって、ただ、産み落とされたに過ぎない。それに意味も価値もなくて、そのことを感謝するなんて思いつきもしませんでした」
「―― ……ブラック」
言葉に詰まって、心細く名を呼べばブラックは綺麗に瞳を細めて笑みを作る。
「今は、感謝しています。こうして今、ここに居るから私はマシロに触れられる。マシロが産まれてくれたから、私はこうして満たされる……ありがとうという感謝の意味を理解することが出来る」
―― ……私がただの種屋であったなら、知ることはなかった気持ちです。
じわりとブラックの言葉が私に染み込んでくる。
ブラックは私なんかより、余程真っ白だ。夜の闇を背負うには綺麗過ぎるくらいまっさら。
「ルインシル…… ――」
青い月という名に相応しいと思う。
「―― ……久しぶりに聞く名です」
「嫌?」
思わず口をついて出た言葉は失敗だったかと不安が過ぎれば、ブラックは曖昧な表情で首を振る。
「ただ、その名は、私に母を思い出させます。何度も何度も、呪いのように呼び続けられた……姿はおぼろげ、でも、名を呼ぶ声だけは良く覚えています」
「っ、ご、ごめん。で、でも、私は、私は感謝してるよ。お母さんの思いは私には分からない。分からないけど、私にとって種屋は……ブラックは、ルインシルでないと意味がなかった」
ブラックでなければ私はいらない。
きっぱりと口にすれば語尾を掻き消すように抱き締められる。あまりの強さに、刹那息を詰めたものの、それは私を苦しめるためのものじゃない。
ブラックの背に腕を回して、そっと撫で、きゅっと力を込める。
「マシロが生まれてくれたこと、私を選んでくれたこと、感謝しています。言葉だけでは足りないから、態度で……態度だけでは足りないから言葉で、ちゃんと、伝わっていますか?」
掠れる声でどこか苦しげに告げられる。
答えなんて分かってる。
でも、何度だって確認したくなる。
分かっていても不安なんだ。
不安で堪らない、好きで堪らない。
私はこれ以上もないくらい愛されていると思う。
そんな気持ちに満たされて、私はうっとりとする。
「伝わってるよ……知ってる」
もぞりと身体を動かせば、少しだけ腕の力が緩められる。私の顔を覗き込む瞳に私が映る。自分に大した自信はないけれど、ブラックの瞳に映る自分は嫌いじゃない。
「だって、私も同じ気持ちだもの」
ぐいっと回した腕に力を込めて引き寄せる。そして重ねた唇を軽く吸い、緩んだ合わせ目からするりと口内に割り入った。
「……っふ、んぅ……」
どちらともなく漏れる声は、なるべく抑えようと思うけれど、離れるつもりは毛頭なくて、もっとと強く引き寄せれば同じだけか、それ以上で応えてくれる。
優しく背を撫でてくれる手が心地良い。
「マシ、ロ……」
「……っん」
ざらりとした舌先が私の上顎を舐め、舌を絡め取り甘く吸い、軽く食む。身体中が熱を持ち心臓がどこにあるのか分からなくなるくらい、全身で脈打っている。
胸の奥が、お腹の底が……ずくずくと鈍く疼く。
これ以上は駄目と分かっているのだけど、私は弱いから、もっと欲しいと思ってしまう。
縋りつきそうな自分を何とか押し留めて、ちゅっと軽い口付けで離れるブラックを許す。
「どうします?」
ブラックの背後で、街灯がぽつぽつと灯り始めた。
ほんの少し頬を朱に染めて、潤んだ瞳で問い掛けてくるブラックはちょっと卑怯だ。
私は、ぽすりとブラックの胸に顔を埋めて体重を預け短く唸る。
正直、凄くしたい。
でも、明日も授業だし、帰るといってここまで足を運んだわけだし、それに……。
「―― ……明日まで、我慢する……」
「マシロは我慢強いですね」
呻くように口にした私の頭上でブラックがくすくすと笑う。
うるさいな。とぼやいて不貞腐れればゆるゆると宥めるように、頭を撫でられる。時折、髪を梳いて抜けていく長い指先の感触が、私を夢見心地にする。
「明日はいつもより早く迎えに来ますね?」
「―― ……ぅん」
「そのときには、マシロの誕生日を教えてください。国の祭日に指定したいくらいですけど……出来れば私だけに、こっそりと」
貴方を寄り深く知るのは私だけで十分です…… ――。
この猫は、一体どこまで私を毒すれば気が済むんだろう。そう、思わずにはいられなかった。
***
「―― ……誕生日? 何を藪から棒に」
「カナイのあの騒ぎはいつだっけ?」
落ち着いてから――そうじゃないと確実に私は情事の後のような顔をしていると思う――寮に戻り、いつもどおり、混雑する時間を避けての夕食時。私はまたも話題に誕生日を持ち出した。
私の目の前で新聞を広げていた、行儀の悪いお父さん……もとい、カナイは、私の台詞に顔をあげる。
「五月十五日」
「……本当に?」
「嘘だけど、そういうことにしてある。何日か決めないとうるさいから、もう、それで通すことにしたんだ」
……嘘から出た真ですか?
納得出来ないように眉を寄せればカナイは曖昧に微笑んで肩を竦めた。
「本当は十一月」
「全然、違うじゃんっ!」
私の突っ込みに、隣でエミルがくすくすとお上品に笑った。
「僕は九月ですよ。九月の初めだと思います」
ひょいと身を乗り出して、私のトレイの中からおかずを奪っていきながらアルファが答える。
「と、思いますって、自分の生まれた日でしょう?」
「そうですけどー、僕、知らないんですよ」
アルファの様子では、忘れたとかそういう感じでもなさそうだ。眉を寄せた私にエミルも乗っかる。
「僕も、三月だと思うけど、正確には知らない。初旬かもしれないし、下旬だったかも……カナイのように正確に決める必要性もなかったから、そのままかな」
「知らない人、多いの?」
そんな馬鹿なと重ねそうになると、カナイが先に口を開いた。
「民間人なら、そんなに気にしないだろうから知ってるやつも多いと思うけどな。実際祝う習慣がないわけでもないし。でも、こいつらみたいになってくると、母親くらいしか覚えてないと思うぞ。もし、知っているヤツがいても、他言は無用だ。命に関わるからな」
そう締め括って、食後のお茶を飲み始めた。
「物騒な世界……」
「お前がいう物騒はここの仕様なんだろ?」
「―― ……ぅ」
カナイの尤もな台詞にぐうの音も出ない。
そして、大人しくお茶を含んだ私にエミルがのんびりと声を掛ける。
「で、マシロの誕生日はいつ?」
「え?」
「あ、本当、いつですか? もう、いっそ白月聖誕祭とかにして、国民の祝日にしましょうよ。マシロちゃんの話を聞いてたらシル・メシアって祝日が少なすぎます」
大事になりそうだ。
「え、と……私は……」
続く言葉を待っているみんなから顔を逸らして、うーっと唸る。
「わ、忘れた」
だ、だって、二人だけでお祝いしようと約束したばかりなんだもん……。
二人だけの秘密……。そこに魅力を感じないわけない。
こんな苦し紛れの嘘、元の世界なら絶対に信じてもらうことはないけれど、この世界は素敵だ。
「そっか、残念」
あっさり受け入れられた。
「えーっ! 勿体無いっ。じゃあ、マシロちゃんがこっちに初めて来た日か、戻った日にしましょう? いつだったかな。ちょ、カナイさん覚えてないんですか!」
「お、俺に振るなよっ」
「暖かいころだったよねぇ……」
「仕方ない。ストーカーに聞くしかないんじゃないですか?」
「ああ、あいつなら覚えてるだろうな。確実に」
私の話題のはずなのに、蚊帳の外になっていた。それなのに、みんなの視線が戻ってきてしまう。
なんだろうなぁ、この妙なノリ。
私は苦笑して
「聞いとくよ、一応」
頷いてご馳走様と手を合わせた。
「絶対、絶対、ぜーったいですよっ!」
シル・メシアに祭日が増える日も近い、かもしれない……。