後編
「マシロはお酒好き?」
「え、私は別にあってもなくても良いかな。紅茶の方が好きだし。でも、少しは飲めるようになっておいたほうが良いからって、練習中」
これは飲みやすくて美味しいね。と瓶を軽く振れば、うん。と笑みで返される。
そんな他愛もない会話をしつつ、暫らく二人でぼんやりと瓶を傾けた。
不意に訪れた沈黙が特に息苦しくなるようなことはない。三人とはしょっちゅう一緒に居るし、傍に居るというだけで安心出来る関係だ。
そう、本当の家族のように。私はこの世界では一人きりで――血縁者という意味で――だから、近しい家族と読んで相応しいのは、エミルたち三人とシゼくらいだろう。
ブラックは、もちろん誰よりも近いけれど家族ではない。私はブラックが他所へ心を許すことをきっと許せないんじゃないかと、そう思うから。自分の中の黒い部分がざわつくのは、やはりブラックに対してだけだ。
ほう、と長息して私は枝葉を揺らす木を見上げていた。
そういえば、ここの木はまだ、葉を失っていない。
中庭の木は枝が寂しくなって来ているというのに、少し不思議。でも、もうその程度のことに驚きは覚えない。
* * *
「もしかして、一人で考え事とかしたかったんじゃない?」
どうして私は気がつかなかったんだろう。誘われるままについてきてしまったけど、普通に考えたらそういう意図で夜中にこっそり……だったのは明白だ。
「そんなことないよ」
そして、優しいエミルがそういってくれるのも分かる。やはり、先に戻ったほうが良いかと腰を上げ掛けたら、腕を掴まえられた。
「ここに居て、もう少しだけ」
お願いと重ねられては、私も立ち去るには忍びない。迷惑じゃないならと、苦笑して、もう一度腰を降ろした。
「エミル、もしかして疲れてる?」
「え? ううん。別にそんなことないと思うよ」
いって笑ってくれたけど、ごしっと目を擦って、大きく深呼吸する。
「エミル」
「うん」
「もしかして、マリル教会のことで何かもめてる?」
ぽつりと私が問い掛ければ、エミルは首を傾げつつ私の手の中から瓶を取り上げた。そして、そのまま躊躇なく口を付ける。あ、と声が出そうになるのを飲み込んだ。
こくんっと月明かりに白く浮かぶ喉仏が上下する様はどこか艶かしい。
意図せず熱くなる頬を隠すように顔を伏せれば、エミルが飲んでいた瓶がいつの間にか足元に置いてある。なくなったんだろう。
私は、内心慌しく話を続ける。
「レニ司祭のことも押し付けたし」
今更だ。今更な話題に、エミルは微笑む。
「そんなこと気にしないで良いよ。それに、別にもめてない。レニ司祭と何かあるとしたら、今はまだ、マシロとのことじゃなくて、正直いえば、シゼのことかな?」
話は聞いたんだよね? と付け加えたエミルに私は頷いた。
「ちょっと強引に急がせたから、面白く思われてない。権威のない、継承順位の低い王子が将来有望な生徒を出し抜いて引き抜いた。表面上は、何事もなく……だけど、しこりは残ってると思うよ」
「でも、シゼはここにきたことを後悔してないと思うけど。エミルのこと大好きだし」
「え?」
「え? シゼが、だよ?」
「ああ、うん。シゼがね」
お互いに絡んだ自然を瞬かせたあと、どちらともなく顔を逸らす。
何を勘違いしたのかは問わないことにしよう。自分で自分の首を絞めることになりそうだから。
「うん、そう、シゼね……レニ司祭の、面白くなさそうな顔……良く覚えてるよ。飼い慣らす、暇を与えなかった、から、ね」
どういう意味か聞こうとしたら、肩がずんっと重くなった。え? と見ると、エミルが寄りかかっている。長い睫毛は頬に掛かり、静かにゆっくりと呼吸している……。
「寝てるし」
私は苦笑して、エミルの手の中から瓶を抜き取った。
さわさわと心地良く吹き抜けていく風が、頬を撫でエミルの髪を揺らす。
「……じょぶ、心配ない、よ」
零れた寝言に頬が緩む。
エミルはいつも私のことをみんなのことを、気に掛けてくれている。
今回のことだって私のせいじゃないといってくれるけど、私が踏み込まなければ混ざらなかったことだ。
私はエミルと同じだけ、エミルのことを気に掛けてあげられているだろうか?
その自信は全くない。ないに等しい。あるわけない。よね。思って苦笑する。
それでも、紛争してくれるエミルに私は心からの感謝しか上げることは出来ない。
そっと、額を撫で前髪を掬うと、柔らかい髪に唇を寄せる。
そしてそのまま、頭を支えて、少しだけお尻の位置をずらし、ゆっくりとエミルの頭を膝に落とす。起きてしまうかと思ったけど、少し唸っただけで、目を覚まさなかった。
やっぱり疲れているんだと思う。
静かに頬に掛かった髪を横に流せば、眉間に寄った皺が和らいだ。ほっと胸を撫で下ろし、私は肩に掛けていたストールをエミルの身体にふわりと掛けた。
すりっと膝に頬を摺り寄せられてくすぐったい。
零れ落ちそうな笑いを堪えてから、私はもう一度エミルの髪に触れた。
綺麗で、不思議な色をした髪の毛。襟足に少しだけ癖があるみたいだ。
なんか可愛い。
ふふっと堪えきれない笑みを溢したところで「主」と声が掛かり、びくりと心臓が跳ねた。身体ごと跳ねなくて良かった。
『何をしている?』
「しー……静かに。エミルが休んでるから、もう少し、少しだけ眠らせてあげて」
音もなく私たちの前に歩み寄ってきたハクアは、私とエミルを交互に見たあと、私の足元に丸くなった。
ハクアのふわふわが足に触れて暖かくて気持ち良い。
そうして、私のわがままを許してくれるハクアに心の中でお礼を告げた。
辺りが深閑とし、優しい空気に包まれるような気がする。膝の重みも心地良く温かい。端正なエミルの横顔を、静かに見つめつつ時折風に乱される髪を撫でる。
少しでも長く、この時間を守ってあげたい。
素直にそう思った…… ――
* * *
「―― ……ロ、マシロ」
「ん、んぅ」
私、どうやら転寝をしてしまっていたらしい。落ちていた目を擦りつつ瞼を持ち上げる。
「ひゃあっ!」
余りに近い距離で下から見上げられていて私は思わず肩を跳ね上げた。文字通り跳ねさせた。
「ごめんごめん。直ぐどくよ」
エミルはその様子にくすくすと笑って、私の膝を横断していた身体を起こして隣に座った。足元に居たハクアが心配そうに鼻面を押し付けてくる。
それに気を取られていると、ふわりと肩が暖かくなった。
「貸してくれてありがとう」
続けて「戻ろう?」と手を差し出される。
私はエミルから戻ってきたストールを胸元に手繰り寄せて片手で握り、エミルの手を取って立ち上がる。
絡めとられた指先から伝わってくる暖かさに、私はまた、眠気が戻ってきた。アルコールがまだ身体に残っているのだろう。
ふわりふわりととても心地良い。
かつん、かつんっとエミルが空いた手に持っていた瓶が二つ仲良く打ち合う小さな音も眠気を誘うだけだ。
「抱っこかおんぶしてあげようか?」
私は、いい! と慌てて頭を振った。
その急な動きに、ぐらりと揺らいで慌ててエミルの腕にしがみ付く。エミルの方が飲んでいるはずなのに、すっかり覚めてしまったのか、くすくすと笑いながら、出来ればそのまましがみ付いていてね? と、階段を降り始めた。
私は、膝枕が長かったのもあったのか、膝がかくんかくんして仕方なかったから素直にエミルの腕にしがみ付かせてもらった。
「マシロ」
部屋の扉を潜るまで見送ってくれたエミルが、扉の前で改めて名前を呼ぶ。
私は閉じかけた扉を、開いて続きを待った。
エミルは少し言葉を選ぶためか逡巡していたが、直ぐに私の瞳を見つめて微笑むと「ありがとう」とだけ口にした。
私も同じようにエミルに掛ける言葉を捜したけれど、どれも適当ではないような気がして、結局「どういたしまして」と返しただけだった。
ぱたんっと扉を閉じて、ノブを握り締めたまま、私はエミルの気持ちを思う。私がみんなを“家族”なんて枠でくくることを、きっと苦しく感じている。それが分からないほど、私は鈍くない。でも、それを許してくれる、エミルに甘える。私の方が、余程ズルイ人間だといえるだろう。
エミルに対して申し訳ないな、という気持ちと、それに対する甘えから自嘲的な笑みを溢すと「主」とハクアの声が掛かる。
それとほぼ同時に隣の部屋の扉が閉まる音がした。
私は少しだけ瞑目して贖罪する。
ごめんね。
私の好きは、エミルの好きとは永遠に重ならないと思うけれど……それでもやっぱり、大好きなんだよ……。
「―― ……寝ようか?」
いって私はそのままベッドの中へと潜り込んだ。黙って付いてはいるハクアに腕を回して瞼を落とす。
―― ……直ぐに夢路への扉は開かれた。
きっと今夜はリンゴ酒のような甘くて優しい夢を見るだろう…… ――