第8話:鉄灰の関門
西へと続く唯一の街道。その行く手を阻むように、巨大な石造りの門がそびえ立っていた。
かつては「黄金の門」と呼ばれ、旅人を迎えたであろうその場所も、今の俺の目には、ただの巨大な灰色の墓標にしか見えない。
門の周辺には、魔法騎士団直属の守備隊が陣取っていた。
副団長のような「聖なる輝き」こそないが、彼らが手にしているのは、法外な魔力を注ぎ込まれた最新鋭の魔導兵装だ。
「……止まれ。ここは現在、選ばれし『清浄なる民』以外の通行を禁じている」
検問所に立つ門番が、蔑むような視線を俺に向けた。
彼らが纏う外套からは、微かにあの「百合の香り」が漂ってくる。
香水による洗浄。それが、この国の境界線を引き、俺たちのような「不浄」を炙り出すための篩だ。
「西へ行く」
俺は短く答えた。
答えながら、右手の感触を確認する。……ない。
指先の感覚は、昨夜よりもさらに深い霧の底に沈んでいる。
握り締めた『スクラップ・スラブ』の柄の冷たさも、もはや指の腹では感じ取れない。
俺は背嚢から一本のボロ布を取り出し、動かない指ごと、鉄塊の柄に固く巻き付けた。
「なんだ、その醜い鉄屑は? ……まさか、強行突破のつもりか?」
門番の男が、呆れたように笑い、腰の魔導剣を抜いた。
「正気ではないな。その汚れ、ここでまとめて削ぎ落としてやるわ」
騎士が剣を掲げると、門を覆う巨大な障壁が脈動した。
魔法騎士団が誇る『聖域の模造品』。
あらゆる物理的衝撃を減衰し、許可なき者の「質量」を弾き返す、不可視の壁。
俺は、脳の『一番目』を全開にした。
――パチリ。
熱が脊髄を突き抜ける。
脳が物理的な高熱に震え、耳の奥で嫌な金属音が鳴り響く。
色彩を失った視界がさらに狭まり、中心だけが異常なまでの鮮明度で「壁の綻び」を映し出す。
(指の感覚がいらないなら、腕ごとぶち込めばいい)
俺は地を蹴った。
魔導剣から放たれる熱光を、最小限の回避で潜り抜ける。
熱い。頬を焼く熱だけは知識として理解できるが、痛みはもはや遠い対岸の出来事だ。
一歩、二歩。
加速した世界の中で、俺は『スクラップ・スラブ』を全力で振りかぶった。
右手の感覚は完全に死んでいる。
だが、布で縛り付けた「腕の延長」が、空気の抵抗を切り裂く重みだけを俺に返した。
「聖なる盾に――抗えるものか!」
激突。
――ガァァァァァァァァン!!
衝撃波が地面を砕き、周囲の石畳が跳ね上がる。
清浄な光の障壁が、錆びた鉄塊が触れた瞬間に「汚染」を開始した。
緻密に組まれた術式の中に、俺の鉄塊が撒き散らす「不純物」と「錆」が泥のように流れ込む。
パキ、パキパキ、と。
美しかった光の壁が、どす黒い煤を吐き出しながらひび割れていく。
「な……馬鹿なッ! 障壁が、腐って――」
「……退け」
俺はさらに力を込めた。
右手の神経が焼き切れるような異様な熱気を感じるが、そんなものは無視した。
砕ける。
一撃。
圧倒的な質量が、魔法の理屈をねじ伏せ、障壁ごと石造りの門を「粉砕」した。
爆鳴と共に、巨大な石塊が飛散する。
門番たちはその余波で吹き飛ばされ、地面に転がった。
俺は止まらない。
土煙が舞い、視界がさらに灰色に沈む中、粉砕された門の向こう側へと踏み出した。
背後で、警笛の音が鳴り響く。
どれほど走っただろうか。
追手の気配が消え、脳を焼いていた『過熱』を強制的に遮断した時。
俺は、激しい立ちくらみと共に膝をついた。
「……っ、ぐ」
口から鉄の味が込み上げ、灰色の地面にぶちまける。
視界が明滅し、呼吸が熱い。
俺は震える手で、右手に巻き付けたボロ布を解いた。
指先を動かそうとする。
動かない。
ピクリとも。
かつては霧の向こうにあった「指先の感触」が、今はもう、霧そのものが消え去り、ただの「空虚」になっていた。
指の腹で地面をなぞる。
土のザラつきも、石の冷たさも、何一つ返ってこない。
まるで、自分の腕の先が石細工か何かに挿げ替えられたかのような、絶対的な断絶。
「……忘れたか」
俺は、感覚の消えた右手を、ただじっと見つめた。
一時的な麻痺の段階は終わった。
俺の右腕は今、この瞬間をもって、世界の質感(手触り)を永遠に失ったのだ。
だが、それでも。
傍らに転がる『スクラップ・スラブ』の重みだけは、まだ俺の肘が、肩が、そして「脊髄」が捉えていた。
関門の向こう。
そこには、俺と同じ「欠落」を抱えた者たちが集うという、鉄屑の荒野が広がっている。
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【欠損記録】
■永続欠損(恒久的な喪失)
・温感(左下肢):完全消失
・色彩(視覚):剥離完了(モノクロとして定着)
・記憶(特定人物の容貌):抹消済み
・触覚(右手指):【New】完全消失(末端の神経回路が焼失、物理的な感触を一切感知不可)
■一時負荷(麻痺・減退中)
・味覚/嗅覚:重度麻痺
・平衡感覚:重度負荷(脱力・立ちくらみ)




