第7話:虚ろな熱
夜の帳が下りても、俺の世界は灰色のままだった。
森の奥、人跡未踏の岩陰に身を潜め、小さな焚き火を熾す。
かつてなら「燃えるような橙色」と形容されたであろう火影も、今の俺の目には、ただの「騒がしい灰色の光」にしか見えない。
あの森での脱出、そして先日の村での酷使。俺の視覚からは、もはや鮮やかな色彩を捉える機能が、根こそぎ奪い去られていた。
俺は、無造作に左足を火の粉の舞う場所へ投げ出す。
一月前に失った代償。案の定、この足はどれほど炎に近づこうとも、熱いという警告を俺に送ってこない。
肉の焦げる匂いが鼻をつき、俺は平然と足を引く。痛みも熱もない「死んだ肉」を連れて歩く不自由。これが俺の、最初の永続欠損だった。
「……ふぅ」
背嚢から取り出した、固くなった干し肉を口に運ぶ。
噛みしめるほどに広がるはずの塩気も、脂の旨味も、今の俺には「砂を噛んでいる」のと大差ない。
だが、これはまだ「死んで」はいない。
味覚と嗅覚。これらは回路を休ませれば、数日のうちに微かな余韻を返してくれるはずだ。
今はただ、過熱しすぎた脳が処理を拒否しているだけの、一時的な麻痺に過ぎない。
俺は、傍らに置いた『スクラップ・スラブ』に手を置いた。
右手の指。
鉄の表面にあるはずの「錆びのザラつき」が、厚い革手袋越しに触れているように遠い。
指先の微細な感覚が、一向に霧の向こうから戻ってこない。
一時的な負荷から、永続的な欠損へ。
その境界線が、足音を立てて近づいているのを、俺の「本能」だけが知っていた。
もはや、この指先は鉄の質感を忘却しようとしている。
それでも。
手のひらを通じて伝わってくる「質量」だけは、相変わらずズシリと重い。
この重さだけが、俺が「ここ」にいることを証明している。
五感が消え、世界が透き通るような灰色に溶けていく中で、この鉄塊だけが俺を現実に繋ぎ止める最後の錨だった。
目を閉じると、不意に古い「音」が蘇る。
それは、今のような静寂ではなく、もっと騒がしく、もっと熱い場所の音。
『――おい、逃げろ。回路を焼くなと言っただろう』
誰の声だったか。
思い出そうとしても、声の主の「顔」はもう思い出せない。
第2段階の代償は、すでに俺の「認識」――大切な記憶の優先順位にまで食い込んでいる。
俺が求めているのは、自由でも復讐でもない。
ただ、この鉄の味が消えるその瞬間まで、俺自身の意志で自分を使い切ること。
「……無駄なことを」
俺は思考を打ち切った。
焚き火が爆ぜ、灰色の火花が散る。
俺は、感覚の消えかかった右手の指を曲げ、何度もその「重み」を確かめた。
俺は、灰色の闇に身を沈め、浅い眠りへと落ちていった。
夢の中でさえ、世界はもう、色を取り戻してはくれなかった。
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【欠損記録】
■永続欠損(恒久的な喪失)
・温感(左下肢):完全消失
・色彩(視覚):剥離完了(世界はモノクロとして定着)
・記憶(特定人物の容貌):認識回路からの抹消
■一時負荷(麻痺・減退中)
・味覚/嗅覚:重度麻痺(数日の休息で微弱に回復見込み)
・触覚(右手指):末端感覚の忘却(永続欠損への移行警告)




