第4話:不純物の咆哮
空気が、不自然に澄んでいく。
灰色の世界の中で、唯一「匂い」だけがその純度を増し、俺の鼻腔を突き刺した。
百合の香り。
吐き気がするほど清潔な、あの魔法騎士たちの傲慢な残り香だ。
「いたぞ。不浄な野良犬が」
小屋の入り口、浄化されて真っ白になった地面に、二つの影が落ちた。
白銀の甲冑を纏った騎士。第2話で対峙した女騎士の部下だろう。
彼らは手に光り輝く剣を掲げ、不快そうに顔を歪めている。
「……あァ、ひどい匂いだ。鉄の錆に、泥の腐臭。よくもこれほど汚らしいまま生きていられるものだ」
一人の騎士が、空いている手で鼻を覆った。
彼らにとって、俺を殺すことはもはや崇高な任務ですらない。
ただ、目障りな汚れを拭き取り、森の景観を整えるための「掃除」だ。
俺は何も答えない。
ただ、肩に担いだ『スクラップ・スラブ』を、ゆっくりと下ろした。
ズシリ、と。
凍った土を鉄塊が叩き、腕の骨に確かな重みが伝わる。
指先の感覚は、まだ戻っていない。
だが、この圧倒的な質量だけは、俺の掌に食い込むようにその存在を主張していた。
「なんだ、その鉄屑は? 武器のつもりか?」
騎士が嘲笑う。
彼が剣を振るうと、空中に光り輝く『術式』が展開された。
魔法障壁。
物理的な衝撃を無効化し、あらゆる「不浄」を跳ね返す、完璧な清浄の盾。
「跪け、罪人。聖なる光に焼かれ、塵に帰るがいい」
光の槍が、俺の胸を目掛けて放たれる。
俺は脳の『一番目』の回路を、最小限だけ回した。
熱が脊髄を走る。
加速した世界の中で、俺は光の軌道を僅かに逸らし、真っ直ぐに騎士の懐へと踏み込んだ。
「――無駄だ! 我らが守護は不変ッ!」
騎士が叫ぶ。
俺と彼の間に、眩いばかりの光の壁が立ち塞がる。
俺は構わず、右腕の筋肉を、感覚のない指を、ただ「重み」のままに振り抜いた。
叩きつける。
錆びついた鉄塊が、清浄な光の壁に激突した。
刹那――耳を刺すような、不快なノイズが響いた。
パキパキと、ガラスが割れるような音ではない。
油が水に混ざり、泥が真水に溶け込むような、ドロドロとした「汚染」の音だ。
「……なっ、魔法が……黒ずんで……!?」
騎士の目が、驚愕に見開かれた。
『スクラップ・スラブ』が触れた場所から、光の壁が急速に煤け、ひび割れていく。
積層された錆、鉄の不純物、そして俺が纏う泥。
そのすべてが、精密に構築された騎士の術式を「汚染」し、物理的にショートさせていた。
魔法は美しく、清浄でなければならない。
ゆえに、この「圧倒的な不純物」の前では、その構造自体が耐えられず崩壊する。
障壁が、霧散した。
俺は止まらない。
そのまま、錆びた鉄の塊を騎士の胸部へと叩き込んだ。
グシャリ、という鈍い音がした。
斬るのではない。
圧倒的な質量で、鎧ごと肉を、骨を、魂ごと「解体」する衝撃。
指先は何も感じない。
だが、衝撃が腕を伝わり、肩を揺らす。
その痛みにも似た振動だけが、俺が今、生きていることを教えてくれた。
「あ、が……ば、かな……神聖なる……鎧、が……」
白銀の騎士が、無残にひしゃげた胸を抱えて崩れ落ちる。
もう一人の騎士が、震える手で剣を構え直した。
「貴様……何を……何をした! その呪われた鉄は何だ!」
「……ただの、ゴミだ」
俺は短く答えた。
血を吸わず、錆を撒き散らす鉄塊を、再び肩に担ぐ。
残りの一人が魔法を放とうとするよりも早く、俺は二歩目を踏み出した。
今度は、逃がすつもりはない。
灰色の世界の中で、錆びた咆哮が再び響き渡った。
……数分後。
小屋の前に残されたのは、真っ白な地面を汚す、不自然なほど鮮やかな「赤」だけだった。
俺は倒れた騎士の首筋から、銀色のメダルを剥ぎ取った。
聖教騎士団の証。
だが、その裏面に、俺は見覚えのある「汚れ」を見つけた。
煤で書かれたような、歪な紋章。
そして、鼻を近づければ、微かに漂ってくる焦げた紙の匂い。
『西へ。鉄の味が消える前に』
それは、あの男が残した、俺への唯一の「道標」だった。
俺はメダルを握りつぶし、灰色の山道を一瞥した。
山小屋はもう、俺の居場所ではない。
この錆びた鉄塊が、俺を次の「代償」の地へと誘っている。




