第2話:白の侵食
「……ここでお別れだ」
闇の中から、焦げた紙の匂いが漂ってきた。
男の視界は完全に戻っているようだった。だが、そこに親愛や感謝の色は一片もない。
俺も同じだ。枷を外すために力が必要だった。だから背中を預けた。それだけの話だ。
「そうか」
俺は短く答えた。
理由も、行き先も聞かない。俺たちは戦友ですらなく、ただ同じ檻を壊しただけの同類に過ぎない。
「次は、俺が貴様を焼くことになるだろう」
男は事も無げに言った。脅しではなく、単なる「予定」の確認だ。
俺たちが歩む道は、どちらかが生きている限り、いつか必ず交差する。その時、どちらかが目的の障害となるなら、迷わず殺し合う。
「その前に、お前が自分を使い切っていなければな」
「案ずるな。俺の記憶はまだ、お前を殺す分くらいは残っている」
男はそれきり、音もなく森の深淵へと消えた。
あとに残ったのは、焦げた匂いの残滓と、刺すような静寂だけだ。
――だが。その静寂は、長くは続かなかった。
ふわり、と。
森の土の匂いや、獣の死骸が放つ腐臭が、一瞬で消えた。
代わりに漂ってきたのは、吐き気がするほど甘く、清潔な、百合の香水の匂い。
「……見つけた。汚らしい野良犬が」
頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。
見上げれば、そこには月光を弾くほど白く輝く鎧を纏った女騎士が浮遊している。
彼女は空中から、泥にまみれた俺を、まるで道端に落ちたゴミでも見るような、蔑みの眼差しで見下ろしていた。
彼女が細い指先を振る。
それだけで、俺の周囲の木々が白く変色し、音もなく崩れ落ちた。
炎で焼くのではない。腐らせるのでもない。
ただ「存在が洗われた」かのように、世界から物質が削り取られていく。
「穢らわしい。その鉄の匂い、その呼吸……すべてがこの森を汚している」
カツン、と。
女騎士が空中で、退屈そうに指を鳴らした。
「……消毒」
刹那、月光よりも鋭い光の槍が、俺のいた場所を正確に貫いた。
避けた。だが、回避の軌道すら読まれている。二の矢、三の矢が、俺の着地地点を狙って空間に固定される。
逃げられない。
漂ってくる百合の香りは、ただの匂いではない。彼女が展開する魔法領域の『座標』そのものだ。
この香りに包まれている限り、俺の呼吸のひとつひとつが、彼女に俺の居場所をリアルタイムで伝えている。
(思考が追いつかない。……いや、捨てるものが間違っている)
今の俺に必要なのは、夜の闇や、返り血の赤や、騎士の金の髪を愛でる余裕ではない。
俺は脳の『二番目』の栓を抉り取った。
――パチリ、と。
脳内で何かが爆ぜる音がした。
次の瞬間、世界からすべての「色」が剥がれ落ちた。
鮮やかだった森の緑も、敵の美しい白銀の鎧も、冷たい灰色の濃淡だけに塗りつぶされる。
だが、その代償として得た「視界」は劇的だった。
灰色の世界の中で、騎士から放たれる殺意の導線――魔力の奔流だけが、不気味なほどの「輝き」を持って浮かび上がった。
「あら……?」
女騎士の眉が、怪訝そうに動く。
彼女が放った必殺の光槍を、俺が最小限の動きで回避したからだ。
指先の感覚は戻らない。
世界は色を失った。
だが、「死の道筋」だけは、今、この目にはっきりと焼き付いている。
(……五分も保たない)
脳が、物理的な熱を持って震えている。鼻の奥から鉄の匂いが混じった液体が垂れるのがわかった。
脳の冷却が追いつかず、組織が悲鳴を上げている。
俺は地を蹴った。
向かうのは騎士ではない。その背後、最も「白」が薄い森の境界。
俺は身体を捻り、木の幹を蹴り、弾丸のように森の深淵へと潜り込んだ。
背後で、凄まじい衝撃音が響く。振り返る余裕はない。
どれほど走っただろうか。
百合の香りが消え、代わりに湿った土と、腐った木の匂いが鼻をついた時。
限界まで回していた『二番目』の回路を、俺は強制的に遮断した。
「……が、ふっ……!」
激しい嘔吐感。
膝をつき、胃の中にある酸っぱい液体をぶちまける。
視界が激しく揺れ、モノクロの世界がゆっくりと、だが不完全に色を取り戻し始めた。
「……はぁ、はぁ……」
俺は自分の手を見た。
そこには赤がある。だが、どこか色が薄い。
完全に失ったわけではないが、かつて見ていた鮮やかな世界は、もう戻ってこないことを本能が理解していた。
「……生き延びた、な」
俺は重い身体を引きずり、再び歩き出した。
目指すのは、かつての自分の道具が眠る場所。
錆びつき、忘れ去られた山小屋。
そこには、俺を救うものは何もない。
ただ、俺が俺として死ぬための準備だけが、静かに待っているはずだ。




