第16話:錆の果て
音が、消えた。
脳の限界回路をこじ開けた瞬間、世界は静寂に包まれた。過熱した脳が、処理の優先順位から「聴覚」を切り捨て、あいつを殺すための燃料として差し出したのだ。
蒐集家が何かを叫んでいる。だが、今の俺にはそれすらもスローモーションで流れる無声映画の一場面に過ぎない。
「……あ……」
視界の端が黒く溶け落ち、中心だけが異常なまでに白く、敵の喉元を射抜いている。
右腕の『排熱駆動』を、限界を超えて逆噴射させた。肉の中に埋め込まれた支柱が赤く発熱し、焼鉄のような匂いが鼻を突く。
蒐集家が放つ、無数の「他人の記憶」を凝縮した炎の刃。
あいつは嘲笑うように、俺の記憶を――救えなかった妹の面影を薪としてくべ、その熱を俺にぶつけてくる。
俺は、それを避けなかった。
――汚染。
錆びた鉄塊が、記憶の炎に触れた瞬間。
美しく、悲しく、輝かしかったはずの誰かの人生が、一瞬にして煤けた汚れへと変質し、霧散していく。
魔法も、記憶も、寄生虫の野望も。この圧倒的な「不純」の前では、形を保つことすら許されない。
「――ッ!!」
恐怖に歪む蒐集家の顔。
俺は、右腕のシリンダーを爆発させた。文字通り、肉を突き破ってボルトが弾け飛ぶ。
その捨て身の推進力をすべて乗せて、俺は『スクラップ・スラブ』を、あいつの脳天へと叩きつけた。
衝撃波が、大煙突を内側から引き裂いた。
壁を埋め尽くしていた数万の記憶の瓶が砕け散る。
砕け散る寸前、蒐集家の口が、無音の中で動いた。
『――感謝するよ、薪くん。……君が私を壊したことで、この世界の「蓋」は外れた』
あいつの瞳に、嘲笑が宿る。
『焼却炉が消えれば……溢れ出すぞ。騎士団が隠し続けてきた、腐った世界の「錆」がね……。……あはは、楽しみだ。君が、その無音の中で、何を視ることになるのか――』
蒐集家の姿が、粉々になった本の頁のように宙に舞った。
……何も、聞こえない。
……何も、感じない。
右腕はもはや肉の体を成しておらず、ねじ曲がった鉄の支柱が剥き出しになっている。
色彩の消えた瞳からは、血なのか涙なのかも分からない液体が溢れ、灰色の地面に落ちていく。
俺の名前。故郷。救いたかった少女の顔。
奪い返したはずの記憶は、あいつの死と共に空の彼方へ消え去り、残されたのは広大で冷たい「空白」だけだった。
俺は、あいつと一緒に、俺自身を完全に焼き切ったのだ。
「……あんた……っ!」
背後から、微かな振動。
ニカが、瓦礫を掻き分けてこちらへ歩み寄ってくるのが、地面の震えで分かった。
彼女が何を叫んでいるのか、俺にはもう分からない。
空を見上げると、煙突から解き放たれた無数の「灰」が、雪のように街に降り注いでいた。
俺はもう、自分が何者だったかを知る術を持たない。
だが、この空っぽの胸の奥で、ただ一つ。
錆びた鉄の「重み」だけが、冷たく、確かに、俺がまだここにいることを刻んでいた。
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数日後。
アイアン・グレイヴの入り口に、一隊の白銀の騎兵が現れた。
先頭に立つ副団長は、無惨に破壊された大煙突を見つめ、不快そうに鼻を鳴らした。
「……焼却炉が壊された。……不浄な中身が漏れ出す前に、すべてを『白』に染めなさい。……一人も逃がすな。あの男の脳に眠る『秘密』が、世界に広がる前に」
彼女の視線の先。
鉄屑の荒野を、一人の少女に支えられながら歩いていく、灰色の影があった。
男の脳の奥底、焼失したはずの記憶の澱で、死んだ蒐集家の声が冷たく響いた。
『――さあ、二番煎じを始めようか。薪くん』
第一部:錆と鉄灰の章 ――完。
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【欠損記録:第一部 最終状態】
■永続欠損(恒久的な喪失)
・聴覚(全音域):【New】完全消失(決戦により焼失)
・記憶:【深刻】自己の氏名、過去の目的を喪失。
・温感、色彩、触覚:消失済み。
■残留変異
・脳内汚染:【Warning】蒐集家の「意志の残滓」が、欠損した記憶の空白を埋めるように定着。
■物理状態
・右腕:機械義肢と完全に癒合。生体反応なし。




