第12話:錆を狙う犬ども
アイアン・グレイヴの路地は、常に何かが腐食し、何かが軋む音で満ちていた。
ニカの案内に従って、巨大な歯車の影を抜けた時――背後で、複数の「足音」が重なった。
それは逃走を促すような軽い音ではなく、獲物を追い詰める猟犬の、粘り強い足取りだ。
「……ニカ。あんた、ツケでも溜めてるのか?」
俺が低く問うと、ニカは足を止めずに肩をすくめた。
「まさか。私はいつだって前払いだよ。……狙われてるのは、あんたのその背負ってる『ゴミ』の方さ」
路地の先、そして背後の瓦礫から、四、五人の男たちが姿を現した。
誰もが身体のどこかを安物の義肢に挿げ替え、手には錆びた鉈や、魔力を強引に火花へ変える「発火棍」を握っている。
「おい、新入り。その背中の塊、いい匂いがするな……」
先頭に立つ男が、喉に埋め込んだ拡声器を震わせた。その瞳は、魔法騎士団のような選民意識ではなく、ただ「腹を空かせた獣」の餓えに支配されている。
「その『錆』を置いていけ。そうすれば、その死にかけの右腕だけは残してやる。……ここで生きるなら、鉄は命より重いってことを教えてやるよ」
俺は、無造作に右腕のボロ布を解いた。
指先は動かない。
鉄の柄に触れているはずなのに、脳には「何も握っていない」という空白の信号だけが届き続けている。
俺は、視線を右手に落とした。
目で見て、指が柄を捉えていることを確認し、そのまま肘の筋肉を固定する。……これで、振り回すだけならできる。
「……断る。これは俺の『中身』の一部だ」
「なら、バラして売るだけだ! やれ!」
男たちが一斉に飛びかかってきた。
一人が放った発火棍の火花が、灰色の視界を白く焼き払う。
俺は脳の『一番目』を回そうとして、止めた。
ここで過熱させれば、今度は「音」か「光」を完全に失う予感がある。
俺はただの筋力と、鉄塊の質量だけで応戦した。
――ガギィン!
飛来する鉈を、『スクラップ・スラブ』の腹で受け止める。
衝撃が肘を突き抜け、肩に響く。だが、指先は何も感じない。
感覚がないということは、「どれくらいの力で握ればいいか」の調整が効かないということだ。
俺は反射的に、握力を限界まで引き上げた。
ミシミシと、鉄の柄が軋む音が聞こえる。
自分の指の骨が悲鳴を上げているかもしれないが、痛みがない俺には、それを止める術がない。
「……死ねッ!」
背後から別の男が、剥き出しの回路が走る義手で殴りかかってきた。
――ドォン!
俺は避けなかった。
避けるよりも早く、鉄塊を「真後ろ」へ振り抜く。
右手の感覚がないせいで、軌道が僅かにズレる。
だが、そのズレが逆に、相手の予測を上回る歪な一撃となった。
鉄塊が男の脇腹を捉え、その身体ごと、隣のスクラップの山へ叩きつける。
「ぎゃああああっ!? 腕が……俺の義手が……!」
男が絶叫する。
『スクラップ・スラブ』が触れた瞬間、男の義手に流れていた魔力が汚染され、回路が爆発したのだ。
「……バカな。ただの鉄の棒じゃないのか、ありゃ……!」
リーダー格の男が後ずさる。
「『調律』されてない野良の鉄が、俺たちの魔力回路を喰いやがった……。こいつ、マジで『不純物』の塊かよ!」
男たちの目が、欲望から恐怖へと変わる。
彼らにとって、魔力を汚染する鉄は「呪い」そのものだ。
「おい、ニカ! こんなヤバイ奴を連れて歩いてんのかよ!?」
「失礼だね。彼は私のお客さんだよ」
ニカが、鞄から取り出した小型の煙幕弾を地面に投げつけた。
シュゴォ、と灰色の煙が立ち込め、視界が完全に遮断される。
俺はその隙に、ニカに腕を引かれて路地の奥へと駆け出した。
……数分後。
追っ手の気配が完全に消えたゴミ捨て場の陰で、俺は足を止めた。
右手を、見る。
柄を握りしめていた指先からは、血が滴っていた。
感覚がないまま力を入れすぎたせいで、自分の爪が掌に食い込み、肉を裂いていたのだ。
滴る血は、今の俺の目には、ただの「どす黒い水」にしか見えなかった。
「……ほら、言ったでしょ。あんた、もう自分の身体の制御ができてないんだよ」
ニカが呆れたように俺の右手を掴み、手際よく止血剤を塗り込む。
その処置さえ、俺には他人の出来事を眺めているような遠い光景だった。
「……今の戦い方、蒐集家に見られたら一瞬でバラされるよ。……急ごう。私の店で、その『死んだ腕』を、本物の武器に変えてあげる」
俺は黙って、血に濡れた右手を握り直した。
鉄の重みだけが、俺の脊髄を、微かに震わせ続けていた。




