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錆と鉄灰  作者: ヨシ
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第1話:鉄の味と、熱の代償

鉄の匂いがした。

喉の奥にこびりつく、錆びた釘を舐めているような不快な味。

それが自分の血なのか、それとも手首を縛り付ける枷の錆なのか、もう判別はつかない。


ガタガタと、硬い車輪が凍土を削る振動だけが、生きている実感を繋ぎ止めていた。


「……酷い顔だな」


隣から声がした。

低く、湿り気のない声。そちらへ視線を向ける。闇に慣れた眼が捉えたのは、男の輪郭だった。

男からは、古びた書庫を焼いたような、焦げた紙の匂いが漂ってくる。


「お前もな」


短く返す。

喋れば体温が逃げる。この極寒の護送車において、それは「死」を意味する。


「まもなく処刑場だ。……なあ、お前は『次』、何を差し出す?」


男の問いに、俺は奥歯を噛みしめた。

俺たちの強さは、天から与えられた恩寵ではない。

脳の抑制、生物としての生存本能を無理やり焼き切り、物理限界を超えた出力を引き出す「前借り」の力だ。


「……右手の指だ」


俺は短く答えた。

すでに左足の温感は失われ、世界は半分ほど冷たくなっている。

これ以上、回路を回せば――今度は「一時的」では済まないかもしれない。


「俺は視界を売る。三分もあれば、十分だろう?」


男が薄く笑ったような気配がした。

その直後、護送車が大きく揺れて停止する。


「降りろ、罪人ども! 聖下の御前だ!」


荒々しく扉が開かれ、暴力的なまでの冷気がなだれ込んできた。

篝火に照らされたのは、断頭台と、並んで立つ重装歩兵。


俺は横目で「焦げた紙の匂い」の男を見た。

彼はすでに、何もない虚空を見つめている。代償を支払ったのだ。

俺も、意識の奥にある『一番目』の栓を、力任せに抉り開けた。


――脳が、沸騰する。


熱。

凄まじい熱が脊髄を駆け抜け、視界が真っ赤に染まった。

同時に、右手の指先から一切の感覚が消失する。

まるで、右腕の先が霧に溶けて無くなったかのような、頼りない錯覚。


(……五分だ)


それ以上この出力を維持すれば、この「感覚の麻痺」は一生治らない。

指の感覚がないまま、俺は地面に転がされていた古い「鉄の杭」を、足の甲で跳ね上げた。


感覚のない右手。

それを動かしているのは、「神経」ではなく「執念」に近い。

虚空を掴むようなもどかしさを、反射と経験で補い、俺は杭を掴み取る。


「……あ?」


兵士が声を上げた時には、俺の身体は凍った地面を滑るように加速していた。


重い。

身体が、自分のものじゃないみたいに重い。

だが、速度だけが世界から取り残されたように跳ね上がっている。


俺は、一歩目を踏み出した。


目の前の兵士の喉元へ、鉄の杭を突き立てる。

手応えはない。指が何も感じないからだ。

だが、鮮血が噴き出し、俺の顔に熱い飛沫がかかったことで、その死を理解した。


「敵襲! いや、囚人が――」


叫びが上がる前に、俺は次の獲物の懐へ潜り込む。

右手の指は動かない。だから、拳を握り固めることはせず、指を揃えた「手刀」の形で、鎧の隙間――脇下を貫いた。

肉を裂き、肋骨を砕く感触すら、今の俺には伝わらない。

ただ、視界の隅でタイマーが刻まれている。

脳を焼き切る熱が、少しずつ、確実に俺の理性を溶かしていく。


ふと、横で爆ぜるような音がした。


隣にいた「焦げた紙の匂い」の男。

彼は盲目のはずだ。だが、その足取りは俺よりも迷いがない。

男が手を振るたび、兵士たちの記憶が、あるいは認識が「書き換えられて」いく。

男を敵と認識できず、呆然と立ち尽くす兵士の首を、男は躊躇なく掻き切った。


「無駄に動くな。道を作る」


男の声が、ノイズの混じる俺の耳に届く。

男は「自分に向けられる殺意」の方向に、見えない視線を向けている。

彼が撒き散らす「焦げた匂い」が、処刑場の重苦しい空気を焼き払っていく。


処刑場の外縁、漆黒の森が口を開けている。

あの中にさえ入れば。


「……ぁ、ぐ」


突然、右腕に鋭い痛みが走った。

感覚が消えているはずの場所が、炭火を押し付けられたように熱い。

過負荷の限界。


俺は森の入り口にある大木を蹴り、強引に影の中へと身を投じた。

隣では男も、闇に溶けるように姿を消す。


やがて。

脳を焼いていた熱が、潮が引くように去っていった。

代わりにやってきたのは、心臓を直接握りつぶされるような、激しい動悸と悪寒。


俺は木陰にうずくまり、右手を目の前に掲げた。


「……動け」


一秒、二秒。

指先に、冷たい夜の空気が触れる感覚が、微かに戻ってきた。


……繋がった。

今回は、まだ。


だが、代償はゼロではなかった。

右手の指は動く。

しかし、その指先が触れている「樹皮の感触」が、以前よりもずっと、遠いものに感じられた。

指先の「解像度」が、一段階落ちたような感覚。


夜の森は、静まり返っている。

遠くで、俺の知らない鳥が、何かを悼むように鳴いた。


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