第9話 お嬢様が詳しすぎる~紙~
カール陛下の教育が始まって、数日が経った。
夏の日差しが容赦なく照りつける。六月も半ばを過ぎ、王城の中庭では薔薇が満開だった。
お嬢様に言われた通り、私はカール陛下のお世話をしている。
といっても、やることは単純だった。手の届く場所におもちゃを置く。自分で着替えられるよう、服を低い棚に移す。転んでも手を貸さず、自分で立つのを待つ。
最初は不安だった。2歳の子どもを放っておいていいのか、と。
でも、カール陛下は日に日に変わっていった。
自分で靴を履こうとする。自分でおもちゃを片付けようとする。うまくいかなくても、癇癪を起こさずにやり直す。
「えま、みて!」
積み木を積んで、嬉しそうに私を呼ぶ。
「上手にできましたね、陛下」
「もっとたかくする!」
この子は、ちゃんと成長している。
お嬢様のやり方は、正しかったのかもしれない。
そして今日、私は王城の執務室でお嬢様にお茶を淹れている。
窓から差し込む午後の陽光が、お嬢様のプラチナブロンドの髪を照らしていた。銀に近い金色が、絹糸のようにさらさらと揺れる。
大きな椅子に座ったお嬢様は、机に向かって帳簿をめくっていた。足が床に届かず、ぶらぶらと揺れている。その小さな背中は、椅子の背もたれにも届いていない。
人形のように整った横顔。陶器のような白い肌。長い睫毛が、帳簿を見つめるたびに揺れる。
——本当に、この子が国を動かしているのか。
何度見ても、信じられない光景だった。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「……」
返事がない。帳簿に集中しているらしい。
アイスブルーの瞳が、紙の上を滑っていく。小さな指が、ぱらぱらとページをめくる。机の上には、各地から集められた帳簿が山のように積み上がっている。
「お嬢様?」
私が声をかけると、お嬢様はようやく顔を上げた。
「エマ」
「はい」
「単式簿記ね……」
「たんしき?」
聞いたことのない言葉だった。
「入金と出金しか書いてない。これじゃ何もわからないわ」
お嬢様はため息をついた。小さな肩が、ふうと下がる。
「そういうものでは……?」
帳簿とは、そういうものだと思っていた。お金が入った、お金が出た。それを記録するのが帳簿ではないのか。
「複式簿記を導入したいんだけど——」
「ふくしき……?」
「お金の出入りだけじゃなくて、何が増えて何が減ったかを両方書くの。そうすれば不正がすぐわかる」
なるほど、わからない。
でもお嬢様は説明を続けなかった。紙を指で触り、眉をひそめる。
「この紙じゃ量産は無理ね」
「量産、ですか?」
「全国の役人に複式簿記を教えるには、教科書がいるでしょう?」
「はあ……」
「教科書を何千部も刷るのに、この紙じゃ話にならないわ」
何千部。
お嬢様は当たり前のようにそう言った。
「この紙、何から作ってるか知ってる?」
「ボロ布です。古くなった服や布を集めて、叩いて繊維にして……」
「そう。ボロ布紙ね」
お嬢様は紙を光に透かした。
「繊維が短くてバラバラだから、滲むし破れやすい」
「はい……雨の日は特に滲みます」
「長期保存には向かないわ」
お嬢様の言う通りだった。帳簿の紙は、湿気を吸うとすぐに滲む。古い帳簿は端が破れていることも多い。
「羊皮紙なら丈夫ですが……」
「量産できないでしょう?」
お嬢様はため息をついた。
「羊を何頭殺せば帳簿一冊分になると思う?」
「あ……」
考えたこともなかった。確かに、羊皮紙は高価だ。一頭の羊から取れる皮は限られている。
「全国の役所に配る教科書を羊皮紙で作るなんて無理よ」
「確かに……」
「それにインクも問題ね。すぐ薄くなる」
お嬢様は古い帳簿を開いた。確かに、文字が薄くなって読みにくい。
「帳簿は何十年も保存するものよ? 数年で読めなくなったら意味がないでしょう」
「……」
「まず紙とインクを改良するわ。複式簿記はその後」
「紙を……改良?」
「製紙工房を作る。職人を集めなさい」
また、無茶なことを言い出した。
私はメイドなのに、どうして職人を集める仕事をしているのだろう。
「お嬢様、私はメイドです!」
「知ってるわ」
「メイドは職人を集める仕事じゃないです!」
「じゃあ誰がやるの?」
「大臣とか、役人とか……」
「あの節穴たちに任せられると思う?」
……思わない。
「というわけで、よろしくね」
「理不尽です……」
「何か言った?」
「なんでもないです」
◆
数日後。王城の会議室に、紙漉き職人が集められた。
職人が三人。全員が緊張した顔で座っている。
「な、なんで俺たちが王城に……」
「何か粗相でもしたのか……?」
職人たちがひそひそと話している。
「お静かに。シャルロッテ様がお見えになります」
私がそう言うと、職人たちは黙った。
扉が開いて、お嬢様が入ってきた。
お嬢様は椅子によじ登って座った。足が床に届かず、ぶらぶらと揺れている。
「……ガキ?」
職人の一人が、思わず声を漏らした。
「シャルロッテ様です」
「え!? これが!?」
「『これ』って何よ」
お嬢様の冷たい視線が、職人を射抜いた。
「ひっ」
職人が椅子ごと後ろに倒れた。
他の二人も顔面蒼白だ。五歳児に睨まれて、大の大人が震えている。
……気持ちはわかる。私も最初はそうだった。
職人たちは慌てて平伏した。
「いいわ。顔を上げなさい。話があるの」
お嬢様は足をぶらぶらさせながら、職人たちを見渡した。
その姿は五歳の少女そのもの。でも、目だけが違う。
「ボロ布紙を作ってるわね?」
お嬢様が紙漉き職人に尋ねた。
「は、はい……」
「原料が足りないでしょう。だから変えるのよ」
お嬢様は言った。
「植物を使いなさい」
「植物……?」
「楮……は、この国にはないかしら。似たような木はある?」
「こうぞ……?」
職人が首を傾げた。聞いたことのない言葉だ。
「樹皮の繊維が長い木よ。桑の仲間とか」
「ああ、それなら……野生の桑なら山にいくらでも……」
「それを使いなさい。繊維が長い植物ほど、丈夫な紙ができるの」
「繊維が長いと……丈夫?」
「そう。ボロ布は繊維が短くてバラバラでしょう? だから弱い」
お嬢様は立ち上がった。椅子の上で。
「繊維が長ければ、互いに絡み合って、引っ張っても破れにくくなる」
「な、なるほど……」
職人は感心したように頷いた。
「いい? よく聞きなさい」
お嬢様は説明を始めた。
「まず、樹皮を剥いで、灰汁で煮る。半日くらい」
「灰汁で……? 紙に灰汁を?」
「灰汁が何か知ってる?」
「木灰を水に溶かしたもの、ですよね……」
「そう。木を燃やすと、カリウムという成分が灰に残るの」
「かりうむ……」
「それを水に溶かすと、水酸化カリウムができる。強いアルカリ性の液体よ」
職人は完全に置いてけぼりの顔をしていた。
「樹皮には繊維以外のものがたくさん入ってるの」
お嬢様は構わず続けた。指を折りながら説明する。
「繊維同士をくっつけてる糊みたいな成分。樹脂。渋み。そういう余計なもの」
「はあ……」
「灰汁はそれを溶かすの。セルロース——繊維はアルカリに強いけど、糊や樹脂は弱いから」
「せるろーす……?」
職人が目を白黒させている。
私も同じだ。
「繊維のことよ。灰汁で煮ると、余計なものだけ溶けて流れて、繊維だけが残る」
「なるほど……」
職人は目を丸くした。そういう理屈だったのか、という顔だ。
いや、本当にわかったのかな。私はわからなかった。
「煮たら水で洗って、叩いて、繊維をほぐす」
「叩く……」
「ここからが大事よ」
お嬢様は職人を見た。
「根っこがぬるぬるする植物、知らない?」
「根っこが……?」
「黄色い花が咲くの。背が高くて」
職人は考え込んだ。
「……ああ、あれか? 畑の隅に生えてる……」
「それよ。その根っこを潰して、粘液を取るの」
「粘液を? なんで?」
「繊維を水に入れただけだと、すぐに沈んでムラになるでしょう?」
「……そう、ですね」
「粘液を入れると、繊維が水の中でふわふわ浮いたまま、均一に散らばるの」
「ふわふわ浮いたまま……」
「それを簀で漉けば、ムラのない紙ができる」
職人は目を丸くした。
「漉いたら板に貼って、天日で乾かす。それで完成よ」
「……本当に、それで紙が……?」
「疑うなら試しなさい。布より丈夫で、量産もできる」
お嬢様は言った。
「桑なら植えればいくらでも増やせるでしょう?」
「は、はい……」
私は黙って聞いていた。
お嬢様、どこでそんな知識を……。
繊維の長さとか、粘液の効果とか……。
まるで、実際に作ったことがあるみたいに話している。
「今日は紙だけ。インクはまた今度」
お嬢様は椅子から降りた。
「試作品ができたら報告しなさい」
「は、はい……!」
職人たちが頭を下げる。
私たちは会議室を後にした。
◆
廊下を歩きながら、私はお嬢様に尋ねた。
「お嬢様」
「何?」
「あの……どうしてあんなに詳しく知っているんですか?」
「何を?」
「紙の作り方です。灰汁で煮るとか、繊維がどうとか……」
お嬢様は足を止めなかった。
「夢で見たのよ」
「夢……?」
「そう。長い、長い夢」
それ以上は何も言わなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
聞いても、きっと答えてくれない。
それに——本当のことを知るのが、少し怖かった。
◆
数週間後。
私たちは職人たちの工房を訪れた。
「で、できました……」
紙漉き職人が、震える手で紙を差し出した。
お嬢様は紙を手に取った。指で触り、光に透かす。
「……悪くないわね」
「本当ですか!?」
「滲まない。丈夫。これなら使える」
職人の顔がぱっと明るくなった。
私は思った。
五歳児に褒められて喜ぶ職人たち……。
私も人のことは言えないけど。
「お嬢様、あの……」
「なに?」
「職人さんたち、泣いてますけど」
「感動してるんでしょう」
「そうですかね……」
いや、多分そうなんだろう。お嬢様に認められたのだから。
でも絵面がシュールすぎる。大人の男たちが、五歳児の前で号泣している。
◆
王城に戻る馬車の中。
お嬢様は窓の外を眺めていた。
「次はインクね」
「インク、ですか」
「紙が良くても、インクがダメじゃ意味がない」
お嬢様は言った。
「何百年も消えないインク。そういうのを作るわ」
何百年。
また、途方もない数字が出てきた。
「今度はインク職人を集めなさい」
「……はい」
私はため息をついた。
またか。
私はメイドなのに、どうしてこんなことをしているのだろう。
でも——
「楽しみね」
お嬢様は小さく微笑んだ。
アイスブルーの瞳が、夕日に照らされて輝いている。
——まあ、いいか。
私は窓の外を見た。
お嬢様についていくしかないんだろうな。
胃は痛いけど。




