第7話 皇帝陛下の教育係
賭博場巡りを終えて、王城に戻った。
各地の賭博場を国営化する旅は、想像以上に過酷だった。
行く先々でお嬢様が裏社会の男たちを投げ飛ばし、私は悲鳴を上げ、最終的には全員がお嬢様の軍門に下る。
その繰り返しだった。
「おかえりなさい、シャルロッテ様」
玉座の間で、侍従たちが頭を下げる。
私たちが不在の間も、王城は平穏に回っていたらしい。
ほっとしたのも束の間——
「しゃる!」
小さな声が響いた。
玉座の方から、ちいさな人影がこちらに向かって走ってくる。
カール陛下だった。
よちよちと危なっかしい足取りで、何度も転びそうになりながら、それでも一生懸命に走ってくる。
両手を広げて、満面の笑みで。
「あい! しゃる!」
お嬢様の足元に辿り着いたカール陛下は、その細い足にしがみついた。
よだれかけをつけた2歳の皇帝は、きらきらした目でお嬢様を見上げている。
「ただいま、カール」
お嬢様は、カール陛下の頭をそっと撫でた。
そして、ぎゅっと抱きしめた。
私は目を疑った。
その姿には、まるで母親のような包容力があった。
少女が、幼い皇帝を慈しむように抱きしめている。
——お嬢様が、優しい顔をしている。
賭博場で男たちを投げ飛ばしていた人と、同じ人だとは思えない。
あの冷たい氷のような瞳が、今はほんの少しだけ柔らかく見える。
「しゃる、いなかった」
「ごめんなさい。お仕事だったの」
「おしごと?」
「そう。でも終わったわ。しばらくはここにいる」
「やった!」
カール陛下が両手を挙げて喜ぶ。
お嬢様は小さく微笑んだ。
私は呆然と、その光景を見つめていた。
◆
その日の夕方。
お嬢様は執務室で帳簿を眺めていた。
「お嬢様、カール陛下がお昼寝からお目覚めになったそうです」
「そう」
お嬢様は帳簿を閉じた。
「そろそろ、カールの生活環境も見ておかないとね」
「生活環境……ですか?」
「部屋とか、食事とか。ちゃんと育つ環境になっているか確認するわ」
お嬢様は椅子から降りた。
「カールの寝室を見せてもらうわ」
そうして私たちは、カール陛下のお部屋へ向かった。
「皇帝陛下のお部屋でございます」
侍従長が恭しく扉を開ける。
中に入った私は、息を呑んだ。
豪華絢爛という言葉がぴったりだった。
金箔の天井。絹のカーテン。壁には精緻なタペストリーが掛けられ、燭台には宝石が埋め込まれている。
部屋の中央には、大人が何人も寝られそうな巨大な天蓋付きベッドがそびえ立っていた。
——すごい。
私は圧倒された。これが皇帝陛下のお部屋。自分とは格が違う。当然だけれど、改めて思い知らされる。
棚には高価そうな玩具が整然と並べられている。きっとどれも、私の年収では買えないような品々だろう。
「この部屋、ダメね」
お嬢様が言った。
「え!?」
私は思わず声を上げた。
この豪華な部屋のどこがダメなのだろう。
侍従長も同じ気持ちだったらしく、顔が強張っている。
「ダ、ダメ……とは……?」
「ベッドが高すぎる。カールが自分で降りられない」
「私どもがお下ろしいたします」
「棚も高すぎる。おもちゃも自分で取れない」
「私どもがお取りいたします」
「……それが問題なのよ」
お嬢様は侍従長を見上げた。
5歳の幼女が、老練の侍従長を見据えている。
「全部やってもらって、何ができるようになるの?」
「は……」
「自分で降りられないベッド。自分で取れないおもちゃ。自分で着替えられない服。自分で食べられない食事」
お嬢様は部屋を見回した。
「この部屋は、カールのための部屋じゃない。大人が満足するための部屋よ」
侍従長は何も言えなかった。
「変えるわ」
お嬢様は宣言した。
「低いベッドを入れなさい。カールが自分で降りられる高さの」
「しかし……皇帝陛下の威厳が……」
「威厳で人は育たないわ」
お嬢様の声は冷たかった。
「棚も低くする。おもちゃは手の届く場所に並べなさい。カールが自分で選んで、自分で取れるように」
「かしこまりました……」
侍従長は困惑しながらも頭を下げた。
私は黙ってそのやり取りを見ていた。
お嬢様が何を考えているのか、わからなかった。
皇帝陛下に、平民の子どものような暮らしをさせるつもりなのだろうか。
それが、どういう意味を持つのか。
私にはまだ、見えていなかった。
◆
翌日の昼食。
食堂には、カール陛下とお嬢様、そして私がいた。
侍従たちが控えている。
カール陛下の前には、小さな器にスープが盛られていた。
侍従がスプーンを持ち、カール陛下の口元に運ぼうとする。
「待ちなさい」
お嬢様の声が響いた。
侍従の手が止まる。
「は……?」
「カール、自分で食べなさい」
カール陛下がきょとんとした顔でお嬢様を見る。
「じぶんで?」
「そう」
お嬢様はスプーンを侍従から取り上げ、カール陛下の小さな手に握らせた。
「こうやって持つの。そう、そのまま」
「しゃる、これ?」
「そう。上手ね。じゃあ、すくってみて」
カール陛下がスプーンをスープに入れる。
ぎこちない動きで、スープをすくい上げ——
半分以上こぼした。
「あ」
テーブルにスープが広がる。
カール陛下の服にも飛び散った。
侍従が悲鳴を上げた。
「皇帝陛下のお召し物が!」
「いいのよ」
お嬢様は平然と言った。
「服は洗えばいい。もう一度やってみて、カール」
「うん」
カール陛下がもう一度スプーンをスープに入れる。
今度は少しだけ上手にすくえた。
口に運ぶ途中でまた半分こぼしたけれど。
「できた!」
口の周りをスープだらけにしながら、カール陛下が笑った。
「上手ね」
お嬢様が頷く。
「もっとやる!」
カール陛下は夢中でスプーンを動かし始めた。
テーブルはどんどん汚れていく。
服もぐちゃぐちゃになっていく。
侍従たちは悲痛な顔で見守っている。
私も困惑していた。
皇帝陛下に、自分で食事をさせる。
服が汚れても構わない。
こぼしても叱らない。
これが、教育なのだろうか。
「エマ」
お嬢様が私を見た。
「自分でやることが大事なの。できないことを、できるようにする。それが教育よ」
お嬢様は少し遠い目をした。
「前世ではモンテッソーリ教育と呼ばれていたわ」
私には、まだよくわからなかった。
でも、カール陛下が楽しそうなのは確かだった。
◆
数日後。
カール陛下の部屋は、すっかり様変わりしていた。
低いベッド。手の届く高さの棚。床に並べられたおもちゃ。
豪華さは減ったけれど、2歳の子どもが自由に動き回れる部屋になっていた。
カール陛下は新しい部屋が気に入ったらしく、あちこち歩き回っては、自分でおもちゃを取り、自分で遊んでいた。
「これ!」
カール陛下が棚から積み木を取り出す。
「じぶんでとれた!」
「上手ね」
お嬢様が頷く。
カール陛下は得意げな顔で積み木を並べ始めた。
一つ、二つ、三つ——
そのとき。
カール陛下の手が、棚の上の花瓶に触れた。
先々代の皇帝から伝わる、由緒ある花瓶。
それが、ぐらりと傾いて——
ガシャン。
床に落ちて、粉々に砕け散った。
「皇帝陛下!」
侍従が悲鳴を上げた。
「なんということを! この花瓶は先々代からの……!」
カール陛下の顔が青ざめた。
目に涙が浮かんでいる。
体が小さく震えていた。
「待ちなさい」
お嬢様の声が響いた。
侍従が口をつぐむ。
お嬢様はカール陛下の前にしゃがみ込んだ。
小さな体と、さらに小さな体が向き合う。
「割れちゃったね」
お嬢様の声は、穏やかだった。
「……うん」
カール陛下が震える声で答える。
「どうすればよかったと思う?」
「……そっと……」
「そうね。次はそうしましょう」
「……おこらない?」
カール陛下が恐る恐る聞いた。
「怒らないわ。わかったならいいの」
お嬢様はカール陛下の頭を撫でた。
侍従が口を開いた。
「罰は……?」
「必要ないわ」
お嬢様は立ち上がった。
「本人がわかっている。それで十分よ」
「しかし……しつけというものは……」
「叱って何になるの?」
お嬢様の声が冷たくなった。
「花瓶は戻らない。本人は反省している。これ以上何が必要?」
「……」
「終わりよ。片付けなさい」
侍従たちは無言で花瓶の破片を集め始めた。
私は呆然とその光景を見ていた。
体罰なし。
叱責なし。
王族の教育で、そんなことがあるのだろうか。
私が子どもの頃は、もっと些細なことで叩かれた。
それが当たり前だと思っていた。
なのにお嬢様は——
カール陛下は、お嬢様の足元にしがみついていた。
「しゃる……」
「大丈夫よ。次は気をつければいいの」
「うん……」
カール陛下の目から、涙がこぼれた。
でもそれは、恐怖の涙ではなかった。
安堵の涙だった。




