第6話 お嬢様が強すぎる
六月になっていた。
春はあっという間に過ぎ去り、夏の日差しが照りつける季節になった。この三ヶ月間、お嬢様は怒涛の勢いで政務を進めてきた。鉱山の国営化、塩とタバコの専売制度——そして今日は、賭博場。
王都の歓楽街。
昼間だというのに、通りには怪しげな店が並んでいる。賭博場、酒場、娼館——まともな人間が近づく場所ではない。
「お嬢様、髪が……」
私は隣を歩くお嬢様を見た。フード付きのローブを被っているが、そこからプラチナブロンドの髪が見え隠れしている。
陽光を受けて銀色に輝く。どう見ても、庶民の髪ではない。
「いいのよ。どうせすぐバレるんだから」
お嬢様は気にする様子もない。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか……」
「何度も聞いたわ」
「だって……」
私は目の前の建物を見上げた。
賭博場の入口。厳つい男たちが見張っている。腕を組み、こちらを睨んでいる。どう見ても堅気じゃない。
「行くわよ」
「え? 真正面から行くんですか!?」
「当たり前でしょう?」
お嬢様は堂々と歩き出した。フードの下で、プラチナブロンドが揺れる。
「ちょっ、お嬢様!?」
私は慌てて後を追った。
「なんだ、メイドと……ガキ?」
賭博場の奥、管理者の部屋。
私たちを出迎えたのは、大柄な男だった。顔に傷があり、目つきが鋭い。明らかに裏社会の人間だ。
周りには部下らしき男たちが五、六人。全員がこちらを見て笑っている。
「こちらは帝国の使者です。賭博場の国営化についてお話が——」
「帝国?」
管理者は葉巻を取り出し、火をつけた。
「知らねえな。ここは俺たちの縄張りだ。帝国も王も関係ねえ」
煙を吐き出す。私の顔に向けて。
「国営化? ふざけんな。帰れ」
お嬢様は何も言わない。フードの奥で、アイスブルーの瞳がじっと管理者を見ている。
「聞こえなかったか? 帰れって言ってんだ」
部下の一人が近づいてきた。大きな手が私たちに伸びる。
「お嬢様、逃げましょう!」
「逃げる?」
お嬢様は首を傾げた。
「なぜ?」
「おい、このガキ——」
部下がお嬢様の腕を掴もうとした。
次の瞬間。
部下が吹っ飛んだ。
「え?」
私は目を疑った。
何が起きたのかわからない。ただ、さっきまで立っていた男が、壁際まで飛ばされて倒れている。
「な——!?」
管理者が叫んだ。
お嬢様は、ゆっくりと手を払った。
「触らないでくれる? 汚いわ」
部下たちが一斉に動いた。
「このガキ!」
「やっちまえ!」
五人の男が、お嬢様に襲いかかる。
お嬢様は——動いた。
一人目。大柄な男が腕を伸ばしてきた。お嬢様はその手首を両手で掴み、くるりと身を翻す。男の体が弧を描いて宙を舞い、背中から床に叩きつけられた。呻き声すら上げられない。
二人目。仲間がやられたのを見て怒り狂った男が、拳を振り下ろしてきた。お嬢様はその腕を掴むと、男の脇の下に潜り込むようにして体をくぐらせた。次の瞬間、男は頭から床に落ちていた。何が起きたのか、本人にもわからなかっただろう。
三人目。慎重に間合いを詰めてきた男が、お嬢様の胴に組みついた。捕まえた——そう思った瞬間、お嬢様の小さな手が男の襟を掴んだ。足を引っ掛けられ、バランスを崩す。背中から落ちた男は、肺の空気を全て吐き出して、魚のように口をぱくぱくさせた。
四人目。後ろから掴みかかろうとした男。お嬢様は振り向きもせずに、伸びてきた腕を取った。そのまま腕を捻り上げ、関節を極める。男は膝をつき、悲鳴を上げた。五歳の少女に腕を極められて、大の男が泣いている。
五人目。最後の男は、お嬢様に向かって突進した。体当たりで倒そうとしたのだろう。お嬢様は半歩横にずれ、男の襟を掴んだ。そのまま男の勢いを利用して、円を描くように投げ飛ばす。男は天井を見上げながら宙を舞い、床に激突した。何が起きたのか理解する前に、意識を失った。
五秒。
たった五秒で、五人全員が床に転がっていた。
「……弱いわね」
お嬢様はため息をついた。そして私を振り返る。
「エマ? 手を出したのは向こうが先だから、これは正当防衛よね?」
「え、ええ……そう、ですね……」
声が震えている。自分でもわかる。
五歳の少女が、大人の男たちを——一瞬で。
私は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
管理者は椅子に座ったまま、動けなくなっていた。
葉巻を持つ手が震えている。
ポトリ。
葉巻が床に落ちた。本人は気づいていない。
「な、なんだお前……化け物か……」
「化け物?」
お嬢様はフードを脱いだ。プラチナブロンドの髪がさらりと揺れる。
「失礼ね。未来の皇妃に向かって」
管理者の顔から血の気が引いた。
お嬢様は管理者の前まで歩いていき、近くの椅子によじ登った。足が床に届かず、ぶらぶらと揺れている。
その姿は——五歳の少女そのもの。
でも、目だけが違う。
「もう一度言うわ。この賭博場は国営化される」
静かな声。だからこそ、逃げ場がない。
「これは国王命令よ?」
「国王って……まだ二歳じゃ……」
「国王命令よ?」
「……はい」
管理者は黙った。二歳の国王の命令。実質的には目の前の五歳児の命令。どちらにしても、逆らえる状況ではなかった。
「あなたは——そのまま管理者として働きなさい」
「……は?」
管理者が間抜けな声を出した。
「腕は買ってるの。裏社会の人脈も。潰すより使う方が効率的でしょう?」
「潰す、より……」
「あなただって、稼ぎがなくなったら困るでしょう?」
お嬢様は足をぶらぶらさせながら続けた。
「どうせだったら国からの給金で稼ぎなさいよ。悪くない条件よ」
「……」
「それとも——」
にっこり微笑む。五歳の顔には、あまりにも不敵な笑み。
「潰される方がいい?」
沈黙。
管理者は、床で呻いている部下たちを見た。全員がまだ起き上がれない。たった一人の五歳児に、全滅させられた。
「……わ、わかった。従う」
「よろしい」
お嬢様は満足そうに頷いた。
◆
馬車の中。
私はまだ震えが止まらなかった。
「お嬢様」
「なに?」
「あれは……なんだったんですか?」
「あれって?」
「あの……さっきの……」
お嬢様は窓の外を眺めたまま答えた。
「ああ、合気道と柔道よ」
「あいきどう? じゅうどう?」
聞いたことのない言葉だった。
「相手の力を利用する武術。小さくても使えるの」
「相手の力を……」
「『柔よく剛を制す』ってやつよ」
「さっぱりわかりません」
私は頭を抱えた。
「なんで……そんなものを……」
「夢で習ったの」
「夢!?」
思わず叫んだ。
「ええ。いろんなことを教えてもらったわ」
「夢で……武術を……」
「信じなくていいわよ」
お嬢様は微笑んだ。
「でも、これで安心したでしょう?」
「……」
「私がいれば、危険なんてないの」
安心——したのかな。
むしろ、もっとわからなくなった。
お嬢様は、いったい何者なの……。
私は窓の外を見た。王都の景色が流れていく。
隣には、五歳の少女が座っている。
さっき、大人の男を五人、一瞬で制圧した少女が。
「お嬢様」
「なに?」
「……私はメイドです」
「知ってるわ。それが何?」
「なんでもないです」
それ以上、何も言えなかった。
◆
王城に戻ると、クライン伯爵が待っていた。
顔色が悪い。当然だろう。裏社会の連中に手も足も出なかった男だ。
「シャルロッテ様……そ、それで……賭博場の件は……」
「終わったわ」
「は?」
クライン伯爵が目を丸くした。
「国営化、完了よ。管理者も従うことになった」
「い、一日で!? あの連中が!?」
「話せばわかる人たちだったわ」
話して——?
話して、ないですよね……?
私は黙っていた。何も言えない。
「い、いったいどうやって……」
「それより」
お嬢様はクライン伯爵の言葉を遮った。
「他の領地の賭博場も同じ状況なんでしょう?」
「は、はい……」
「じゃあ、全部私がやるわ」
「お嬢様が全部行くんですか!?」
思わず叫んだ。
「そうよ。エマ、あなたも一緒に来なさい」
「私はメイドです!」
「知ってるわ。だから連れて行くの」
「意味がわかりません!」
お嬢様は私の抗議を無視して、クライン伯爵に向き直った。
「下がっていいわ」
「は、はい……」
クライン伯爵は這うように退出していった。
その背中を見ながら、私は思った。
この五歳児は——いったい何者なんだ。
きっと、クライン伯爵も同じことを考えている。
◆
その夜。
私は自室のベッドに座り込んでいた。
今日、私は見た。
五歳のお嬢様が、大人の男を五人、一瞬で倒すのを。
夢で習った武術を使って。
「……夢」
そんなわけがない。
でも、他に説明がつかない。
お嬢様は、何かを隠している。
それは確かだ。
でも——
「私はメイドです」
声に出して言ってみた。
お嬢様が何者でも、私はお嬢様のメイドだ。
それだけは変わらない。
変わらないでいたい。
震える手を握りしめる。
明日から、また賭博場巡りが始まる。
私は——お嬢様のメイドなのだから。




