第56話 三権分立〜クラウス視点〜
「権力を分けるの」
シャルロッテ様の言葉に、私は眉をひそめた。
「分ける……とは?」
「今、この国の権力は誰が持っている?」
「……陛下です。そして、摂政であるシャルロッテ様が」
「そうね。私が法を作り、私が法を執行し、私が法を破った者を裁く」
シャルロッテ様が指を三本立てた。
「法を作る。法を執行する。法で裁く。この三つが、一人の手にある」
「……」
「これが問題なの」
私は眉間に皺を寄せた。
法を作る。法を執行する。法で裁く。確かに、その三つはシャルロッテ様の手にある。だが、それの何が問題なのか。
シャルロッテ様は優秀だ。法を正しく作り、正しく執行し、正しく裁いている。何も問題はないはず——
いや、待て。
シャルロッテ様は今、何を言おうとしている? 権力を「分ける」と言った。つまり——自分の権力を手放すと?
私は混乱した。権力者が、自ら権力を減らそうとしている。そんな話は聞いたことがない。
シャルロッテ様は黙って紅茶を口に運んだ。私が考えをまとめるのを、静かに待っているようだった。
しばらくの沈黙。
「……なぜ問題なのでしょうか」
私は率直に問うた。
「権力者が法を守る限り、問題はないはずでは」
「今はね」
シャルロッテ様が窓の外を見た。
「私は法を守るつもりよ。でも、私の次は? その次は?」
「……」
「100年後、200年後。必ず、法を守らない権力者が現れる」
シャルロッテ様の声が、静かだが冷たくなった。
「その時、権力が一人に集中していたらどうなる?」
「……その者が法を変え、無茶苦茶な法を執行し、勝手な裁きで法を歪める」
「そう。一人で全部できるから」
私は背筋が寒くなった。
今のシャルロッテ様は法を守っている。だが、将来の権力者がそうとは限らない。権力が集中している限り、法治国家は常に崩壊の危機にある。
「だから、分けるの」
シャルロッテ様が再び三本の指を立てた。
「一つ目。法を作る者——立法」
「立法……」
「二つ目。法を執行する者——行政」
「行政……」
「三つ目。法を破った者を裁く者——司法」
「──司法」
シャルロッテ様が指を折りながら言った。私はオウム返しに言う。
「この三つを、別々の機関に任せる。それぞれが独立して動く」
「……別々に?」
「そう。立法は議会。行政は政府。司法は裁判所」
私は頭を整理しようとした。
「つまり……法を作る者と、法を執行する者と、法を裁く者が、別々ということですか」
「ええ。分けたら安全だと思わない?」
「分けると安全──」
シャルロッテ様の話は常に理屈が通っている。だが、私には全体像がまだ見えない。
「例えば、こう考えて」
シャルロッテ様が言った。
「誰かが悪い法を作ろうとする。でも、立法が独立していれば、議会が『それはおかしい』と止められる」
「……」
「誰かが法を無視しようとする。でも、司法が独立していれば、裁判所が『それは違法だ』と裁ける」
「……なるほど」
「権力が分かれていれば、お互いを監視できる。一つが暴走しても、他の二つが止められる」
私は、ようやく理解し始めた。
「相互に牽制する、ということですか」
「そう。チェック・アンド・バランス——均衡と抑制」
シャルロッテ様が頷いた。
「権力は腐敗する。絶対的な権力は、絶対的に腐敗する」
「……」
「だから、絶対的な権力を持つ者を作らない。それが、法治国家を維持する仕組みよ」
私は、しばらく言葉を失っていた。
法治国家。法の前での平等。
それだけでも、この国にとっては革命的な理念だった。
だが、シャルロッテ様はさらにその先を見ていた。
法治国家を実現するだけでなく、維持する仕組みまで。100年後、200年後まで。
「シャルロッテ様……」
「何?」
「失礼ながら……シャルロッテ様は、どこでそのようなことを学ばれたのですか」
シャルロッテ様が小さく笑った。
「夢で見たの」
「……は?」
「まあそのあたりは余り気にしないでちょうだい」
シャルロッテ様が窓の外を見た。
「そうね──本を読んだだけ。いろいろな本を、そしていろいろな国の歴史を」
「……」
「権力が集中した国は、必ず腐敗する。分散した国は、長続きする。歴史が証明しているわ」
「では、シャルロッテ様」
私は姿勢を正した。
「法学科では、この『三権分立』も教えるべきでしょうか」
「当然よ」
シャルロッテ様が即答した。
「法治国家の理念だけでなく、それを維持する仕組みも教えなさい」
「かしこまりました」
「ただし——」
シャルロッテ様が私を見た。
「今すぐ三権分立を実現できるわけではないわ」
「……」
「今はまだ、私に権力を集中させる必要がある。スピード感をもって、改革を進めるために。これは必要なこと。わかってちょうだい」
私は、その言葉を噛み締めた。
権力の集中は危険だと、今しがた説かれたばかりだ。だが、シャルロッテ様は自らその危険を引き受けようとしている。
この国を急成長させるために。王族が居なくなった今この国は非常に危うい状況にある。周辺国に飲み込まれる前に、力をつけるために急ぐ必要がある。権力を分けることでスピード感が失われてはいけない。
──これは必要なことなのだ。
「だから、クラウス」
「はい」
「私がおかしなことをしていたら、止めてちょうだい」
「……」
「権力は腐敗する。私も例外にもれないかもしれない」
シャルロッテ様が、静かに笑った。
「自分では気づけないこともある。だから、見ていて」
私は深く頷いた。
「……必ず。将来的には分けるということですよね」
「ええ。私がいる間に、必ず権力を分散させるわ。議会を作り、裁判所を独立させる」
シャルロッテ様の目が、遠くを見ていた。
「私がいなくなった後も、法治国家が続くように」
私は深く頭を下げた。
「シャルロッテ様。私は今日、多くのことを学びました」
「そう」
「法治国家の理念。そして、それを維持する仕組み」
私は顔を上げた。
「法学科のカリキュラムは、これで決まりました」
「どうするの?」
「まず、法の精神を教えます。法の前での平等を」
「うん」
「次に、三権分立を教えます。なぜ権力を分けるのかを」
「いいわね」
「そして最後に——」
私は言った。
「法は、守られなければ意味がない。それを実践する者を育てます」
シャルロッテ様が、小さく微笑んだ。
「期待しているわ」
◆
執務室を出た。
廊下を歩きながら、私は自分の胸に手を当てた。
法治国家。三権分立。
8年前、息子のフリードリヒが死んだ時、私の中で何かが終わった。
法は貴族を裁かない。無謀な命令で息子を殺した指揮官は、今も領地で暮らしている。
私は諦めていた。法が平等に適用される日など、来ないと。
だが——
終わっていなかった。
シャルロッテ様の言葉が、私の中で眠っていた何かを呼び覚ました。
「王であろうと、貴族であろうと、法に従う」
「誰も法の上には立てない」
「権力は腐敗する。だから、分ける」
それは、私が諦めていた世界だった。
だが、シャルロッテ様は言った。「私が実現する」と。
8歳の子供が。
——いや、この方は子供ではない。
私は、そう確信した。
もうすぐ、帝国学院が開校する。
法学科で学んだ者たちが、全国に散らばる。法を執行し、民を守る。
そしていつか——議会ができ、裁判所が独立し、三権が分立する日が来る。
その礎を、私が築く。
ルーカスのような若者たちと共に。息子フリードリヒの無念を、次の世代に託す。
それが、私の使命だ。
私の残りの人生を捧げる、使命だ。




