第55話 法治国家〜クラウス視点〜
書けない。
私は羽根ペンを置き、机に積み上がった原稿を見つめた。書いては消し、書いては消し。丸めて捨てた紙が、足元に転がっている。
「法学入門」——その文字に二重線を引く。「法治国家論」と書き直すが、それも違う気がして線を引いた。
何を教えるべきか。どう教えるべきか。
法律の条文を暗記させるだけなら簡単だ。だが、それで何になる。条文を知っていても、法の本質を理解していなければ意味がない。
だが——法の本質とは何だ?
私は57年も生きてきた。法を学び、法を作り、法を執行してきた。それなのに、その問いに答えられない自分がいる。
「クラウス様、お嬢様からの書類です」
メイドのエマ殿が入ってきた。
「ああ、ありがとう。置いておいてくれ」
私の声には張りがなかった。自分でも分かる。
「……あの、何かお困りですか?」
エマ殿が、私の机を見た。積み上がった原稿、丸められた紙。
「……ああ。法学科のカリキュラムを考えているのだが、どうにもまとまらない」
「何を教えるか、ということですか?」
「そうだ。条文を暗記させるだけなら簡単だ。だが、それでいいのか」
私は溜息をついた。
「法を学ぶとは、どういうことなのか。私自身が分からなくなってきた」
エマ殿が少し考え込むような顔をした。
「……法の本質、ですか」
「そうだ。法とは何か。なぜ法を学ぶのか。それを教えられなければ、ただの暗記科目になる」
「暗記ではいけないのですか?」
「いけなくはない。だが……」
私は言葉を探した。
「法を暗記しただけの者と、法を理解した者では、判断が違う」
「判断……」
「法に書いていない事態に直面した時、暗記しただけの者は動けない。だが法の精神を理解していれば、正しい判断ができる」
エマ殿が頷いた。
「なるほど……。では、その『法の精神』とは何でしょうか」
「……それが分からんのだ」
私は天井を仰いだ。
「私は30年以上も法に携わってきた。だが、法の精神とは何かと問われると、答えられない」
「……」
「いや、答えはある。『秩序を守るため』『民を治めるため』——だが、そんな答えでは学生の心には響かない」
エマ殿が、窓の外を見た。
「……私はメイドですので、法のことは分かりません」
「ああ」
「でも……」
エマ殿が首を傾げた。
「お嬢様なら、何かお考えがあるかもしれません」
「……シャルロッテ様が?」
「はい。お嬢様はいつも……その、私たちが思いもよらないことを仰います」
エマ殿の言葉に、私は少し考えた。
確かに、シャルロッテ様の発想はいつも常識の外にある。測量にしろ、教育にしろ、国営化にしろ——私たちが思いつきもしなかったことを、当然のように実行してきた。
「法学科講師に任命されたのもお嬢様です。何を教えるべきか、お嬢様にはお考えがあるのかもしれません」
「……そうだな」
私は頷いた。
「シャルロッテ様にお時間をいただこう。助言に感謝する、エマ殿」
「いえ、私はただ……お役に立てたなら」
◆
私はシャルロッテ様の執務室を訪ねた。
「シャルロッテ様、お時間をいただきありがとうございます」
「いいわ。何?」
8歳の少女が、書類から顔を上げた。プラチナブロンドの髪、氷のような淡い青の瞳。年齢不相応に冷たく、鋭い目。
この子供が、この国を動かしている。
「法学科のカリキュラムについて、ご意見を伺いたく」
「……私に?」
「はい。シャルロッテ様が法学科に何を期待されているのか、お聞きしたいのです」
シャルロッテ様が少し考えるように沈黙した。それから、静かに口を開く。
「クラウス」
「はい」
「この国は、どういう国だと思う?」
「……」
「法がある国? それとも、法がない国?」
私は言葉に詰まった。
「法はあります。しかし……」
「しかし?」
「……正直に申し上げます」
私は覚悟を決めた。
「法はあっても、それが守られているかは別問題です」
「続けて」
「領主の気分で税が変わる。貴族の機嫌で罰が決まる」
私の拳が、膝の上で握りしめられていた。
「法よりも、権力者の言葉が重い。それが……この国の現実です」
シャルロッテ様が、小さく頷いた。
「その通りよ」
「……」
「この国は人治の国。人が治める国」
シャルロッテ様が椅子から降り、窓辺へと歩いていく。小さな体が窓の前に立った。
「法があっても、権力者がそれを無視できる。それが当たり前だった」
シャルロッテ様が振り返った。
逆光の中で、銀に近い金髪が輝いている。
「私が目指すのは、違う国よ」
「……」
「法治国家」
私は息を呑んだ。
「法治……」
「法が治める国。人ではなく、法が」
シャルロッテ様の声は静かだった。だが、その言葉には揺るぎない確信があった。
「王であろうと、貴族であろうと、法に従う」
「……」
「誰も法の上には立てない。身分で罪が軽くなることはない。身分で罪が重くなることもない」
シャルロッテ様が一歩、私に近づいた。
「法の前では、全員が平等。それが、法治国家」
私は、言葉を失った。
法治国家。
その言葉が、胸の奥深くに響いた。まるで、長年探していた答えを見つけたような——いや、答えがあることすら知らなかった問いに、答えを与えられたような。
「シャルロッテ様……それは……」
「非現実的? 理想論?」
「いえ……」
私は深く頭を下げた。
「……感服いたしました」
「?」
「私は長年、法に携わってきました」
声が震えていた。自分でも抑えられなかった。
「法を学び、法を作り、法を執行してきた。しかし……その法が、真に守られる国を見たことがない」
「……」
「見たことがないどころか、想像すらしていなかった」
顔を上げた時、私の目には涙が浮かんでいた。
気づけば、私は語り始めていた。
「私には、息子がおりました」
「……」
「フリードリヒ。8年前に死にました」
シャルロッテ様は黙って聞いていた。
「隣国との国境紛争でした。息子は19歳で、軍に入ったばかりだった」
私の声が震える。
「指揮官が無謀な進軍命令を出しました。勝てるはずのない戦力差で、敵陣に突撃させた」
「……」
「そもそも、あの紛争自体が無意味でした。当時の王——先代は、些細な面子のために兵を動かした。外交で解決できた問題を、武力に訴えた」
私の声に苦みが滲む。
「息子は死にました。部下を庇って」
私の拳が握りしめられていた。
「その指揮官は……貴族でした。責任を問われることもなく、今も領地で暮らしている」
「……」
「法では、無謀な命令で部下を死なせた者は罰せられるはずです。だが、貴族には適用されなかった」
私の目から、涙がこぼれた。
「あの戦争に、意味はあったのか。息子の死に、意味はあったのか」
「……」
「私は……答えを見つけられませんでした。あの時から、私は諦めていたのかもしれません。法が平等に適用される日など、来ないと」
シャルロッテ様が、静かに言った。
「来るわ」
「……え?」
「その日は、来る」
シャルロッテ様の目が、まっすぐに私を見ていた。
「私が実現する」
「……」
「完全な法治国家は、今すぐには実現できない。でも、いつか必ず実現させる」
シャルロッテ様が、窓の外を見た。
「そのために、教育が必要なの」
「……」
「法とは何か。なぜ法に従うのか。それを理解した人材を育てる」
シャルロッテ様が振り返った。
「彼らが全国に散らばり、法を執行する。民に『法は守ってくれるものだ』と示す」
8歳の子供の言葉だった。だが、そこには揺るぎない意志があった。
私が8年前に失った意志が。
私は、膝をついた。
「シャルロッテ様」
「何?」
「私に、その役目をお任せいただけますか」
「法学科講師として、すでに任せているわ」
「いえ……そうではなく」
私はシャルロッテ様の目を見た。
「法治国家を実現する。その使命を、私にお与えください」
「……」
「私の残りの人生を、その理想に捧げます」
声が震えていた。
「息子の無念を……法治国家という形で晴らしたい」
シャルロッテ様が、小さく微笑んだ。
「大げさね」
「……」
「でも、いいわ。任せる」
シャルロッテ様が頷いた。
「期待しているわ、クラウス」
「……はい。必ずや」
シャルロッテ様が、一冊の名簿を取り出した。
「法学科の入学予定者よ」
名簿には、30名ほどの名前が並んでいた。商人の息子、職人の娘、農家の次男……貴族の子弟もいるが、少数派だ。
一人の名前に、赤い印がついている。「ルーカス」——農家の三男、17歳。
「この中に、面白い志望動機を書いた者がいるわ」
「……拝見してもよろしいですか」
「ええ」
私は名簿を開いた。
「『私の父は、領主に不当な税を取られ、田畑を失いました』」
私の声が、低くなる。
「『領主は法を破っていました。でも、誰も裁けませんでした』」
「……」
「『私は法を学び、正しい税の取り立てを行いたい』」
私の手が、わずかに震えていた。
「『父のような人が、もう泣かなくて済むように』……」
名簿を閉じる音が、静かに響いた。
「……彼らは知っているのですね」
私は、呟くように言った。
「何を?」
「法がないとどうなるか。法が機能しないとどうなるか」
「……」
「だからこそ、法治国家の担い手になれる」
シャルロッテ様が、小さく頷いた。
「そうよ。だから、彼らを育てて」
「必ず」
私の目に、もう迷いはなかった。
シャルロッテ様が、名簿を机に置いた。
紅茶を一口飲み、カップを置く。窓の外を見ながら、何かを考えているようだった。
しばらくの沈黙。
「クラウス。もう少し時間はある?」
「はい。もちろんです」
「法治国家の話、もう少し続けたいの」
シャルロッテ様が紅茶のカップを両手で包んだ。8歳の少女には少し大きすぎるカップ。だが、その目は年齢不相応に深い。
「法の前で全員が平等——それを実現するには、仕組みが必要よ」
「仕組み……でございますか」
「ええ。権力が一箇所に集中すると、どうなる?」
私は考えた。
「……法を無視できる者が現れます」
「そう。だから——」
シャルロッテ様が振り返った。その目に、また新たな光があった。
「権力を分けるの」




