第52話 次の段階
三月。お嬢様が八歳の誕生日を迎えてから、一ヶ月が経っていた。今年も盛大な会はなく、ご家族と私だけのお祝いだった。
お嬢様の執務室で、私はお茶の準備をしていた。
クラウス様が報告をしている。
「シャルロッテ様、初等教育は順調に進んでおります」
「ええ。マリアがよくやっているわ」
「このまま続ければ、数年後には識字率は大幅に向上するでしょう」
お嬢様は紅茶のカップを置いた。
「……でも、それだけでは足りない」
「と言いますと……初等教育の次は、中等教育でしょうか」
「いいえ。高等教育を先にやるわ」
「高等教育を……先にですか?」
クラウス様の目が見開かれた。私も驚いた。普通は順番通りにやるものではないだろうか。
「中等教育は後回しでいいわ。初等教育の延長としてやっていけばいいの」
お嬢様は続けた。
「でも高等教育は違うわ。今いる専門家たち、専門家になりたい者たちをより高みに引き上げるの。そちらの方が優先度が高いの。教えた分成果がすぐ出るから費用対効果が高いわ」
「なるほど……」
お嬢様は立ち上がり、窓際に歩いた。
「読み書きができる民が増える。それはいいこと」
「はい」
「でも、誰がその先を教えるの?」
クラウス様が黙った。
「科学者は? 技術者は? 行政官は? 読み書きだけでは、彼らは育たないわ」
お嬢様は振り返った。
「初等教育は種まき。でも、種を蒔いただけでは花は咲かない」
「……」
「水をやり、肥料を与え、育てる人が必要。その『育てる人』を育てる仕組みがいるの」
私は紅茶のポットを持ったまま、お嬢様の言葉を聞いていた。
読み書きができる人が増えても、その先を教える人がいなければ意味がない。初等教育の成果を受け止める場所がなければ、そこで止まってしまう。
お嬢様はいつも、何手も先を見ている。
◆
クラウス様が退室した後、お嬢様は私に言った。
「エマ、ヨハンを呼んで」
「はい」
私はヨハンさんを呼びに行った。
しばらくして、ヨハンさんが執務室に入ってきた。
「師匠、呼んだか?」
「ヨハン。一つ聞きたいことがあるの」
「なんだ?」
「あなたが学んだこと、他の人にも教えられる?」
ヨハンさんが固まった。
「え……俺が……先生?」
「そうよ」
「いや、ちょっと待て! 俺はまだ学んでる途中だぞ!?」
「学びながら教えればいいわ」
「そんな無茶な……」
ヨハンさんが頭を抱える。気持ちは分かる。私も毎日似たような目に遭っている。
「ヨハン」
「な、なんだ」
「一人の天才より、百人の秀才よ」
「……え?」
「あなた一人が何でも知っていても、あなたが年取って死んだらそれで終わり」
お嬢様は淡々と言った。
「私も同じよ。私がいなくなっても回る仕組みを作らないと、いつまでも引退できない」
「引退……」
「でも、あなたが教えた百人がいれば、その百人がさらに教える。知識は広がっていく。それが教育というものよ」
ヨハンさんが黙った。
「あなたは優秀よ。でも、一人では限界がある」
お嬢様はヨハンさんを見つめた。
「あなたの知識を、次の世代に渡しなさい」
「……俺に、できるのか?」
「できるかどうかじゃない。やるのよ」
いつもの台詞だ。お嬢様は「できるかどうか」で判断しない。「やる」と決めたらやる。それだけだ。
ヨハンさんは何も言えないまま、退室していった。
◆
その日の夕方、私はお嬢様に頼まれて工房に向かった。ギュンターさんに渡す書類がある。
工房の扉を開けると、ヨハンさんがいた。作業台に突っ伏している。
「ヨハンさん?」
「……ああ、エマか」
ヨハンさんが顔を上げた。疲れた顔をしている。
「どうしたんですか」
「師匠に、教える側に回れって言われた」
「ああさっきの……私も聞いていましたよ」
ギュンターさんが奥から出てきた。
「なんだ、メイドか。用か?」
「はい、お嬢様からの書類です」
私は書類を渡した。ギュンターさんはそれを受け取りながら、ヨハンさんを見た。
「こいつ、さっきからずっとこうだ」
「俺に先生なんてできるわけないだろ……」
「俺にも連絡来たぞ。学院で技術を教えろってな」
ギュンターさんがあっさり言った。
「おっさんもかよ……」
「ああ。大丈夫だ、問題ない」
「問題あるだろ! 俺、人に教えるなんてやったことないぞ」
「俺はこれまでも何人も弟子育ててきたから、特にやることは変わらんな。弟子か生徒かの違いでしかないわい」
「え、そうなのか……」
「工房じゃ当たり前だ。学院も同じだろ」
「同じって……そんな簡単に言うなよ」
ギュンターさんが笑った。
「できねえやつに、できるようになるまで付き合う。それだけだ」
「……」
「ガハハ、気楽にやれ」
「……おっさんは気楽すぎるんだよ」
私は二人のやり取りを見ていた。
「あの……」
「なんだ?」
ヨハンさんが顔を上げた。
「私も、最初はお嬢様のお手伝いなんてできないと思っていました」
「……」
「でも、やってみたら……なんとかなりました。なんとかするしかなかったので」
ヨハンさんが苦笑した。
「エマもそうだったのか」
「はい。毎日『無理です』『私はメイドです!』と言いながら、気づいたらここまで来ていました」
「言ったのか、お嬢様に」
「はい。でも『いいからやりなさい』で押し通されてきました」
ギュンターさんが笑った。
「確かに、エマさんのやってることはメイドのそれじゃねえわな」
「……自覚はあります」
「ガハハ! まあそういうもんだ。やる前から無理だと決めつけるな」
ヨハンさんはしばらく黙っていた。
「……まあ、やってみるか」
「おお、そうしろそうしろ」
ギュンターさんが肩を叩いた。
私は工房を後にした。ギュンターさんの言葉が、妙に心に残った。
できないやつに、できるようになるまで付き合う。それだけ。
簡単そうに聞こえる。でも、それが一番難しいことなのかもしれない。
◆
夜、お嬢様の部屋でお茶を淹れていた時、お嬢様が言った。
「エマ」
「はい、お嬢様」
「学院を作るわ」
「学院……ですか」
「読み書きができる人材を集めて、専門教育を施す場所。科学、法律、技術……それぞれの分野で教える」
お嬢様は窓の外を見つめた。
「ヨハンが科学を教える。ギュンターが技術を教える。クラウスには法律と行政を頼むわ」
「クラウス様は……なんとおっしゃっていましたか?」
「『承知いたしました』よ。あの人は何を頼んでも文句を言わないから楽だわ」
お嬢様は肩をすくめた。確かに、クラウス様はいつも淡々と仕事をこなす方だ。
「お嬢様は……?」
「私は……監修するだけよ。教えるのは彼らの仕事」
お嬢様の横顔を見つめた。
いつも「やりなさい」と命じる側のお嬢様が、今度は「任せる」と言っている。
一人で全部やるのではなく、人に託す。それがお嬢様の言う「仕組み」なのだろう。
お嬢様はいつも先を見ている。
初等教育が始まったばかりなのに、もう次のことを考えている。
読み書きができる人を増やす——それは土台。その上に、専門家を育てる仕組みを作る——それが本当の目的。
「一人の天才より、百人の秀才」
ヨハンさんは天才だ。でも、ヨハンさん一人では足りない。
ヨハンさんが教えた人たちが、さらに次の人たちを教える。そうやって、知識は広がっていく。
お嬢様は……世代を超えた仕組みを作ろうとしているのだ。
「エマ」
「はい」
「次の春には、学院を開設するわ。それまでに、カリキュラムと入学資格を決めなければ」
「入学資格……ですか」
「読み書きと算術ができること。それが最低条件。初等教育で育った人材が、高等教育に進む。その流れを作るの」
お嬢様が小さく笑った。珍しいことだ。
「10年後を楽しみにしていなさい」
「……はい」
10年後。
その時、この国はどうなっているのだろう。
お嬢様が蒔いた種が、大きな木になっている——そんな未来が、少しだけ見えた気がした。




