第50話 折り合い〜マリア視点~
眠れない夜が続いていた。
シャルロッテ様の言葉が、頭から離れない。
「農民たちは、教育そのものに反対しているの?」
わたくしは何度も、あの日のことを思い返していた。
彼らは言っていた。
「種まきの時期に学校なんか行ってたら」
「畑仕事は誰がやるんだ」
「うちの子を返せ」
……何が答えなのだろう。
教育は必要だ。でも、農民たちの生活も守らなければならない。
どちらかを選ぶしかないのだろうか。
教育を諦める? それでは何も変わらない。
強制する? それでは農民たちの生活が破綻する。
机に向かい、紙を広げた。何か書こうとして……何も書けなかった。
答えが、見つからない。
翌日も、その翌日も、考え続けた。
本を読んだ。他国の教育制度を調べた。でも、どれも参考にならなかった。
他国では、農民の子供に教育を施す発想自体がない。貴族や商人の子供のための制度ばかりだ。
前例がない。誰も解いたことのない問題。
……本当に、答えはあるのだろうか。
教会の司祭にも相談をしてみた。
「農民への教育ですか……」
司祭は困ったように首を傾げた。
「神の教えを広めることは大切です。ですが、農民たちが働かなければ、我々の食べる麦も作られませんからな」
「では、どうすれば……」
「難しい問題ですな。シャルロッテ様にご相談されてはいかがでしょう」
……シャルロッテ様には、自分で考えろと言われた。
城の文官にも相談した。
「農民の子供を学校に? 斬新なお考えですな」
「ええ。ですが、労働力が減ることを嫌がられていて……」
「それは当然でしょう。農民にとって子供は財産ですから」
「どうすれば両立できると思いますか?」
「さあ……前例がないことは、なんとも」
誰に聞いても、答えは返ってこなかった。
ふとした瞬間にあの日の光景が蘇る。
「麦は読めねえ!」
あの怒りに満ちた声。でも、あれは正当な怒りだった。
彼らは間違っていない。わたくしも間違っていない。だから、どちらも折れられない。
……どうすれば、いいのだろう。
◆
また眠れない夜だった。
三日目か、四日目か。もう数えるのをやめた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「マリアさん、起きていらっしゃいますか」
エマさんの声だった。
「……はい」
扉が開き、エマさんがお茶を載せた盆を持って入ってきた。
「やっぱり。明かりが見えたので」
「すみません、眠れなくて」
「わたしもです」
エマさんは静かにお茶を置いた。
「あの日のこと、ずっと考えていて」
「……エマさんも?」
「はい。わたしも、あの人たちに何も言えなかった」
エマさんは椅子に腰かけた。前に出て助けようとして、逆に突き放された日のこと。
「……答えが、見つからないんです」
わたくしは机の上の白紙を見つめた。
「何日も考えて、本も読んで、人にも相談して。でも、誰も答えをくれない」
「……」
「教育を諦めるわけにはいかない。でも、農民たちの生活を壊すわけにもいかない。両方とも正しいから、どちらも折れられない」
エマさんは黙って聞いていた。
「……シャルロッテ様は、自分で考えろとおっしゃった。でも、わたくしには……」
声が震えた。
「……分からないんです」
しばらく沈黙が続いた。
エマさんがぽつりと言った。
「……あの人たち、何に怒っていたんでしょう」
「え?」
「教育が嫌だったんでしょうか。それとも……」
わたくしはあの日のことを思い返した。
「種まきの時期に学校なんか行ってたら」
「畑仕事は誰がやるんだ」
……待って。
シャルロッテ様も同じことをおっしゃっていた。「教育そのものに反対しているの?」と。
彼らは「教育はいらない」と言っていたのではない。「この時期に学校に行かせられない」と言っていたのだ。
「……時期」
わたくしは呟いた。
「時期の問題だったんだ」
「え?」
「忙しい時期が問題なんです。教育そのものじゃない」
わたくしは立ち上がった。
「なら——忙しくない時期に学校を開けばいい」
エマさんが目を見開いた。
「農閑期だけ、学校を開く。種まきの時期、収穫の時期は休みにする」
「それなら——」
「はい。子供は農繁期に働ける。農閑期には学校に通える」
「どちらも、両立できる……!」
エマさんが微笑んだ。
「……すごい」
「いえ、エマさんのおかげです。エマさんが整理してくれた」
でも……
わたくしは少し冷静になった。
「これで本当にいいのでしょうか。中途半端な教育になってしまわないか」
エマさんは少し考えてから言った。
「完璧じゃなくても……ゼロよりずっといいと思います」
「……」
「何もしなければ、何も変わらない。でも、少しでも学べば、少しは変わる」
窓の外を見つめた。夜明け前の空が、うっすらと白んでいる。
完璧な教育ができなくても、何もしないよりはいい。50でも、30でも、ないよりはましだ。
理想を追い求めて何も進まないより、現実と折り合いをつけて一歩でも進む方がいい。
……これが、わたくしの答え。
◆
再び農村を訪れた。
エマさんが同行してくれている。馬車から降りると、農民たちの視線が突き刺さった。
「また来たのか」
「今度は何だ」
警戒の声が飛ぶ。無理もない。前回の視察では、彼らを怒らせてしまった。
「……お話があります」
わたくしは頭を下げた。
村長が出てきた。
「マリア様。この前は……」
「村長様。提案があります」
わたくしは村長の目を見て言った。
「農繁期は休校にします」
「……なんと?」
村長が目を丸くした。農民たちもざわめく。
「種まきの時期、収穫の時期。忙しい時期は学校を休みにします。子供たちは畑仕事を手伝えます」
わたくしは続けた。
「その代わり、農閑期には学校に来てください。冬の間、畑仕事がない時期に、読み書きを学ぶのです」
農民たちがざわめいた。
「農閑期だけ……?」
「それなら……まあ……」
村長がわたくしを見た。
「シャルロッテ様は、それでよいと?」
わたくしは一瞬、言葉に詰まった。
シャルロッテ様には、まだ相談していない。これはわたくしが自分で考えた答えだ。
「これはわたくしの判断です」
わたくしは言った。
「わたくしは教育大臣として、この提案をいたします」
村長が考え込む。農民たちも黙って成り行きを見守っている。
「……農閑期だけなら、子供も暇を持て余しておる」
村長がゆっくりと言った。
「読み書きを学ぶのも、悪くはないかもしれん」
「でも……」
農民の一人が口を挟んだ。
「本当に意味があるのか? 農閑期だけで、読み書きなんて覚えられるのか」
その時、エマさんが前に出た。
「わたしも、最初は読み書きができませんでした」
農民たちがエマさんを見る。前回、「立派な服を着て」と言われた相手だ。
「毎日勉強したわけではありません。仕事の合間に、少しずつ覚えました」
エマさんは静かに続けた。
「それでも……こうして読めるようになりました」
「……」
「完璧ではないかもしれません。でも、読めなかった頃よりずっといい。契約書を読むことはできます」
農民たちが顔を見合わせた。
「……まあ、そういうもんかねえ」
村長が農民たちを見回した。
「分かりました。試してみましょう」
村長が言った。
「ありがとうございます」
わたくしは深々と頭を下げた。
「ただし、農繁期には絶対に呼び出さないでくださいよ」
「もちろんです。お約束いたします」
わたくしはもう一度頭を下げた。
農民たちの表情が、少しだけ和らいだように見えた。
◆
帰りの馬車の中。
わたくしの心は晴れやかだった。
「うまくいきましたね」
エマさんが言った。
「……はい。エマさんのおかげです」
わたくしは頷いた。
「え?」
「あの時、前に出てくれたでしょう。自分の経験を話してくれた」
エマさんは少し照れたように目を伏せた。
「……前回は、何も言えなかったから」
「今回は、言えた」
「はい」
エマさんが小さく笑った。
「わたしも、一歩前進です」
「……そうですね」
わたくしも笑った。二人とも、あの日から少しだけ進めた気がする。
「でも、これで終わりではありません」
わたくしは言った。
「農繁期休校が、本当にうまくいくか。これから試さなければ」
窓の外を見つめた。冬枯れの畑が流れていく。
完璧な答えではなかったかもしれない。理想とは違う形になった。
でも、現実と折り合いをつけることができた。農民たちの声を聞いて、彼らが納得できる形を見つけた。
シャルロッテ様。これがわたくしの答えです。
自分で考えて、自分で見つけた答え。正しいかどうかは分からない。でも、少なくとも……私なりに逃げずに向き合えたと思う。
次は、開校式。この落とし所で、本当にうまくいくのだろうか。
いや、成功させてみせましょう。




