第5話 帳簿の闇
鉱山から戻ったのは、出発から五日後のことだった。
王城の門をくぐった時、私は疲れ切っていた。馬車での長旅、慣れない帳簿調査、そして——見つけてしまった真実の重さ。
三月の風は、まだ冷たい。でも、陽射しには春の気配があった。
「お嬢様、戻りました」
執務室に入ると、お嬢様は窓辺に立っていた。振り返りもせずに言う。
「で、どうだった?」
「……ひどいものでした」
私は持ち帰った帳簿の写しを差し出した。
「現地の産出記録と、王城に届いている報告書を比べたのですが」
「合わなかった?」
「はい。現地の方が三倍以上多いんです」
お嬢様がようやく振り返った。その顔に驚きはない。
「三倍。つまり、三分の二は横流しされてる」
「お嬢様は……知っていたんですか?」
「帳簿を見た時点で、おかしいとは思ってた」
お嬢様は私の持ってきた書類を受け取り、ぱらぱらとめくった。
「でも、証拠がないと動けないでしょう?」
「だから私を……」
「ええ。あなたが見てきた。それが証拠になる」
私は黙った。
最初から、そのつもりだったのだ。
「他の鉱山も同じだった?」
「調べられた範囲では、全部そうでした」
「全部、ね」
お嬢様は小さくため息をついた。
「明日、貴族たちを集めるわ。あなたも来なさい」
「私がですか?」
「証人がいた方が、説得力があるでしょう?」
私は頷くしかなかった。
◆
玉座の間に、大臣と貴族たちが集められた。
私は壁際に控えている。いつものメイドの位置。でも今日は、視線が痛い。
「先日、鉱山の実態を調査しました」
お嬢様が口を開いた。玉座の隣に置かれた小さな椅子。足は相変わらず床に届かず、ぶらぶらと揺れている。
「結果、重大な問題が判明しました」
貴族たちがざわつく。
「産出量の三分の二以上が、正しく国庫に納められていません」
「な……」
誰かが声を漏らした。
「つまり、横流しです」
お嬢様の声は淡々としていた。五歳の少女が、国家的な不正を告発している。その絵面のシュールさに、私はまだ慣れない。
あの小さな手でお人形を抱いていたお嬢様が。「可愛いでしょう?」と小首を傾げていたお嬢様が。もぐもぐと小さな口で食事をしていた、あの愛らしいお嬢様が。
今、大貴族たちを震え上がらせている。
「そ、それは何かの間違いでは……」
一人の貴族が立ち上がった。顔が青ざめている。
「私の侍女が現地で確認してきました」
お嬢様がちらりと私を見た。貴族たちの視線が集まる。
「私の侍女が間違えている、とでも? 言葉に気をつけなさい」
冷たい声。五歳の少女が発しているとは思えない威圧感。
貴族は何も言えずに座り込んだ。
沈黙が広がる。
お嬢様は椅子から降りると——足が床に届かないから降りるしかないのだ——ゆっくりと貴族たちの前を歩き始めた。
小さな足音が、広間に響く。
誰も、何も言えない。
お嬢様が立ち止まった。一同を見渡す。
「本日より、帝国内の全鉱山を国家の直轄とします」
静かな声だった。だからこそ、逃げ場がなかった。
「賭博、塩、タバコも同様です。鉱山と同じ事が起こってました」
「なっ……!」
「り、理由は……?」
誰かが震える声で聞いた。
「さっき説明したでしょう? あなた聞いてなかったの?」
お嬢様は振り返りもしなかった。
貴族たちが騒然となった。
「そんな……それでは我々はやっていけません!」
一人が叫んだ。鉱山を領地に持つ貴族だろう。顔が真っ赤だ。
「収入が減るのは承知しています」
お嬢様は動じなかった。
「さぞかし私腹を肥やしてきたでしょうし、それでなんとかなさい、と言いたいところですが……まあ、そこは譲ってあげましょう」
貴族たちの顔が引きつった。
「三年間、領地への税を減免します」
「三年……?」
「その間に、別の収入源を見つけなさい」
お嬢様は貴族たちを見回した。
「農業でも、工芸でも、商売でも。領地経営を見直す機会です」
「しかし……」
「これはヴァイスバッハ——私の実家も同じです」
お嬢様の言葉に、貴族たちが黙った。
「私が身を切るのに、あなた方だけ例外にはできないでしょう?」
お嬢様はくるりと振り返った。
「ねえ、お父様?」
貴族の列の中で、旦那様がびくりと肩を震わせた。
「も、もちろんだとも……シャルロッテ……」
「よかった。わかってくれて」
お嬢様はにっこり笑った。
五歳の娘に、父親が完全に気圧されている。
貴族たちは顔を見合わせた。誰も、助け舟を出せない。
「異論がなければ、これで決まりです」
お嬢様は一同を見渡した。
「まだ何か言いたいことはあるのかしら?」
沈黙だけが広がった。
◆
会議が終わった。
貴族たちは重い足取りで去っていく。私はお嬢様の後について、執務室へ戻った。
「お嬢様」
「なに?」
「これで、横流しをしていた者たちを罰するのですか?」
お嬢様は窓辺に立っていた。小さな背中が、夕日に照らされている。
「今はまだ」
「え?」
「今罰したら、国が回らなくなる。代わりの人材がいないもの」
「では、このまま……?」
「三年待つわ」
お嬢様は振り返った。
「人材を育てて、証拠を集めて、それから一気に潰す」
「一気に……」
「貴族のほとんどは不正をしてる。今日の反応を見ればわかるでしょう?」
確かに、あの場で声を上げた貴族の顔は、どれも後ろめたさに満ちていた。
「三年後、準備が整ったら、全員まとめて処分するわ」
お嬢様は淡々と言った。
「それまでは泳がせておく」
私は背筋が寒くなった。
三年間、証拠を集めながら、何食わぬ顔で政務を行う。そして機が熟したら、一網打尽にする。
五歳の少女が考えることじゃない。
「お嬢様」
「なに?」
「三年後、私は……」
言いかけて、やめた。
三年後。私は十八歳になる。
普通なら、結婚して、メイドを辞めて、普通の暮らしをしているはずだった。
「何か言いたいことがある?」
「いえ……何も」
お嬢様は少し首を傾げた。
「あなた、結婚とか考えてた?」
「え?」
「その年頃なら、普通は考えるでしょう」
私は何も言えなかった。
「残念だけど、しばらくは諦めて」
「……はい」
「あなたがいないと困るの」
その言葉が、嬉しいのか悲しいのか、わからなかった。
その時、扉が控えめにノックされた。
「シャルロッテ様、クライン伯爵がお目通りを願っております」
侍従の声だった。
「通して」
入ってきたのは、五十がらみの貴族だった。顔色が悪い。さっきの会議にもいた人だ。
「シャルロッテ様……お願いがあって参りました」
「何?」
「賭博場の国営化の件でございます」
クライン伯爵は額の汗を拭った。
「国営化には従います。ですが……」
「ですが?」
「実際に接収しようにも、我々の手には負えないのです」
お嬢様は小首を傾げた。足をぶらぶらさせながら。
「どういうこと?」
「賭博場を仕切る者たちが、言うことを聞かないのです」
「あら」
「用心棒を送っても追い返される。役人を送っても脅される。もはや領主として何の力も及ばず……」
クライン伯爵は床に額をつけた。
「国営化せよとの命は承りました。ですが、それを実行する力が我々にはないのです。どうか、お力をお貸しください……」
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「他の領地は?」
「え?」
「賭博場を持つ他の領地も、同じ状況なの?」
クライン伯爵は頷いた。
「おそらく……私だけではないかと。裏社会の連中は、どこでも同じように振る舞っているはずです」
「そう」
お嬢様は紅茶のカップを置いた。
「わかったわ。私が直接やりましょう」
「ほ、本当ですか!?」
「国営化を命じたのは私よ。実行できないなら、私がやるしかないでしょう?」
お嬢様は微笑んだ。五歳の顔に浮かぶには、あまりにも不敵な笑み。
「下がっていいわ」
「は、はい……ありがとうございます……」
クライン伯爵は這うように退出していった。
「というわけで、賭博場に行くわよ」
お嬢様が私を見た。
「また私ですか……」
「賭博場には裏社会の情報が集まる。この機会に掌握しておきたいの」
「お嬢様、なぜそんなことをご存知で……」
「絵本で読んだの」
絵本。五歳児らしい回答だ。でも、賭博場が出てくる絵本って何だろう。怖い。
「今度は調査じゃなくて、管理者との交渉ね」
「交渉!?」
「国営化するにあたって、現場の協力が必要でしょう?」
「私はメイドです!」
思わず叫んだ。
「裏社会とか、交渉とか、そういうのはメイドの仕事じゃないです!」
「メイド服で行けば警戒されないでしょう?」
「そういう問題じゃないです!」
お嬢様はくすりと笑った。
「エマ、あなた本当に面白いわね」
「面白くないです! 全然面白くないです!」
「明日、出発して」
「聞いてます!?」
「私も行くから」
「……え?」
「裏社会との交渉よ。危険がないわけないでしょう?」
「いやいやいや! だったら余計にお嬢様が行っちゃダメじゃないですか!?」
「何言ってるの」
お嬢様は不思議そうに首を傾げた。
「私がいれば安全よ」
五歳児が何を言っているのだろう。
「お嬢様、失礼ですが、護衛の方を——」
「いらないわ」
「いります! 絶対いります!」
「エマ」
お嬢様は私をまっすぐ見た。
「大丈夫よ。任せときなさい」
何を根拠に、そんなことが言えるのだろう。
でも——その目には、一切の迷いがなかった。
その夜、私は自室のベッドに座り込んでいた。
賭博場の管理者との交渉。
明日から、私はそんなことをしなければならない。
「私、何やってるんだろう……」
天井を見上げる。王城の天井は高い。
三日前まで、私はただのメイドだった。
今は——何だろう。調査官? 交渉人? お嬢様の手足?
「私はメイドです」
声に出して言ってみた。
「私は、メイドなんです」
誰に言い聞かせているのかわからない。
でも、それだけは忘れたくなかった。
どんな仕事をさせられても、私はお嬢様のメイドだ。
それだけは——変わらない。
変わらないでいたい。
◆
翌朝。
私は馬車に乗っていた。今度の行き先は、王都の歓楽街。
隣には、お嬢様が座っている。
「……本当についてくるんですね」
「言ったでしょう?」
お嬢様は窓の外を眺めながら答えた。
「お嬢様、危険です。裏社会の人間ですよ?」
「知ってるわ」
「知ってて行くんですか!?」
「だから私が行くのよ」
意味がわからない。五歳の少女が裏社会との交渉に同行して、何ができるというのか。
「お嬢様に何かあったら、私が処刑されます……」
「大丈夫よ」
お嬢様は微笑んだ。五歳の顔に浮かぶには、あまりにも不敵な笑み。
「私に何かあるわけないでしょう?」
その自信は、どこから来るのだろう。
国を変えようとしている少女。
私は——その少女のメイドだ。
「よし」
小さく気合を入れた。
賭博場の交渉、やってやろうじゃないか。
私はメイドだけど——お嬢様のメイドなのだから。




