第48話 うちの子を返せ〜マリア視点~
首都での教師研修は、想像以上にうまくいった。
地方から集まった聖職者たち。最初は戸惑いの表情を浮かべていた彼らが、研修を終える頃には目を輝かせていた。「教え方」を学ぶという経験が、彼らの中で何かを変えたのだと思う。
わたくしが孤児院で試行錯誤しながら見つけた方法が、こうして広まっていく。それが嬉しかった。
シャルロッテ様から任された教育大臣という大役。少しずつだけれど、形になり始めている。
そして今日、わたくしは農村へ向かっていた。
馬車の窓から、冬枯れの畑が流れていく。首都を出て半日。隣にはエマさんが座っている。
「首都では順調でしたね」
エマさんが穏やかに言う。
「はい。子供たちも楽しそうでした」
わたくしは微笑んだ。首都近郊の学校では、子供たちの目が輝いていた。文字を覚える喜び。新しいことを知る楽しさ。教育の意味を、彼らは理解してくれている。
「農村でも、きっと喜んでもらえるはずです」
わたくしは窓の外を見つめながら言った。
「読み書きができれば、騙されなくなります。契約書を読めるようになれば、搾取されることもなくなる。農民の皆さんにとっても、良いことのはずです」
エマさんは黙って頷いた。
首都での成功。子供たちの輝く目。読み書きを学ぶ喜びを、農村の子供たちにも届けたい。
必ず成功させてみせる——わたくしはそう思っていた。
◆
農村に到着した。
教会が学校として使われている。若い聖職者が出迎えてくれた。
「マリア様、お待ちしておりました」
「ありがとうございます。子供たちは?」
聖職者の顔が曇った。
「それが……」
嫌な予感がした。
教室に入ると、誰もいなかった。
机と椅子が並んでいる。黒板もある。でも、子供の姿がない。
「……誰も、いないのですか?」
「最初は何人か来ていたのですが……」
聖職者が言いよどむ。
「親御さんが連れ戻しに来まして……」
その時、外から声が聞こえた。
「おい、首都から誰か来たってのは本当か!」
「教会にいるらしいぞ!」
聖職者の顔が青ざめる。
「マリア様、今日は視察の日だと……村中に知れ渡っておりまして……」
わたくしは教会の扉を開けた。
人だかりができていた。農民たちが、怒りに満ちた目でこちらを見ている。
「あんたか! あんたがあの教育大臣か!」
男が叫んだ。
「うちの子を返せ!」
別の男が怒鳴る。
「落ち着いてください。話を——」
「なんで子供を取り上げるんだ!」
わたくしの言葉は遮られた。
「理科? 社会? そんなもん農民に必要ねえ!」
「畑仕事は誰がやるんだ!」
「うちの子は7歳からもう一人前だ!」
次々と怒声が飛んでくる。わたくしは必死に説明しようとした。
「読み書きができれば、契約書を読めます。騙されなくなります。搾取されなくなります」
「騙されるも何も、俺たちゃ字なんか読めねえで生きてきたんだ」
「だからこそ——」
「字が読めて何になる!」
男が叫んだ。
「麦は読めねえ!」
その一言が、わたくしの心に突き刺さった。
「種まきの時期に学校なんか行ってたら、来年の飯がなくなるんだ」
「お偉いさんには分からねえだろうがな」
わたくしは言葉を失った。
その時、エマさんが前に出た。
「待ってください」
エマさんの声は、凛としていた。
「わたしは元々、孤児でした。貧しい暮らしも知っています。だから、皆さんのお気持ちは——」
「孤児だと?」
男が鼻で笑った。
「そんな立派な服着て、馬車に乗ってきて、何が孤児だ」
「……」
「今は偉い人の側についてるんだろう。俺たちとは違うんだよ」
エマさんの顔が強張った。
「それは……」
「あんたも、所詮は都の人間だ」
エマさんは何も言えなくなった。わたくしと同じだ。
村長が出てきた。白髪の老人だ。
「まあまあ、皆さん落ち着いて」
村長が農民たちを宥める。そしてわたくしに向き直った。
「マリア様、お気持ちはありがたいことです」
穏やかな声だった。だが、その目には諦めがあった。
「ですがな、うちらにとって子供は……宝であり、働き手でもあるんです」
「……」
「7歳になったら、もう一人前。朝は鶏に餌をやり、昼は畑で草むしり、夕方は牛を小屋に戻す。それが毎日の暮らしなんです」
村長は淡々と続けた。
「種まきの時期は、家族総出ですわ。父が鋤を引き、母が種をまき、子供が土をかぶせる。一人でも欠けたら、作業が遅れる。遅れたら、収穫が減る。収穫が減ったら……冬を越せんのです」
わたくしは息を呑んだ。
「刈り入れの時期も同じですわ。麦が熟したら、天気のいいうちに刈らねばならん。雨が降ったら腐ってしまう。だから朝から晩まで、家族全員で刈り続ける。子供がいなけりゃ、刈り切れんのです」
村長の声には、責める調子はなかった。ただ、事実を述べているだけだった。
「読み書きが大事なのは、分かります。でもな、うちらは明日の飯を食うために生きとるんです。学校に行かせている間、その子の分の仕事は誰がやるんですか」
わたくしは何も言えなかった。
「都の方々には、分からんかもしれませんがな」
村長は静かに言った。
「10年後のことなんぞ、考える余裕はないんですわ」
◆
帰りの馬車の中。
しばらく沈黙が続いた。
「……マリアさん」
エマさんが口を開いた。
「わたし、余計なことを言ってしまいました」
「いいえ。エマさんは、助けようとしてくれた」
「でも、逆効果でした」
エマさんの声は沈んでいた。
「孤児だったから分かる、なんて……偉そうなことを言って」
「……」
「あの人たちの言う通りです。わたしは今、立派な服を着て、馬車に乗っている。お嬢様のおかげで、毎日ご飯を食べられる。あの人たちとは……違うんです」
エマさんは膝の上で拳を握っていた。
「貧しかった頃のことを、忘れかけていたのかもしれません」
わたくしは何と言えばいいか分からなかった。
「……わたくしも、同じです」
ようやく、それだけ言えた。
「修道院で、たくさんの本を読みました。教育の大切さを、いくつもの本で学びました」
窓の外を見つめる。冬枯れの畑が流れていく。
「でも……本には、畑仕事のことは書いてなかった。7歳の子供が、家族を支えていることは書いてなかった」
「……」
「読み書きができれば幸せになれると思っていました。でも、彼らにとっては違った。今日の飯が、何より大切だった」
目に涙が浮かんだ。
「わたくしの理想は……現実の前では、何の役にも立たない」
エマさんも黙っていた。慰める言葉は、出てこないようだった。
二人とも、何も言えなかった。馬車の車輪の音だけが響いていた。
◆
城に戻った。
部屋に入り、椅子に座る。
わたくしの言うことは、間違っていない。読み書きができれば、騙されなくなる。搾取されなくなる。長い目で見れば、農民の皆さんのためになる。
でも、農民の皆さんの言うことも、間違っていない。今日の飯がなければ、10年後はない。子供が働かなければ、家族が飢える。彼らにとって、それは生存の問題だ。
どちらも正しい。
だから、どちらも折れない。
……どうすれば、いいのだろう。
……シャルロッテ様に相談しよう。
シャルロッテ様なら、きっと答えをくださる。




